◆1 編者・藤原定家と後鳥羽上皇の仲たがい
「1200年(38歳)、不遇な現状を打破すべく、和歌を愛する後鳥羽院の目にとまろうと精力を傾けて『院初度百首』を詠み「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮」(馬をとめ袖に降り積もった雪を振り払う物陰もない、佐野の渡し場の雪の夕暮れよ)を収めた。果たして後鳥羽院はこれを絶賛、宮廷への出入りを即日許された。かつては九条家の歌人だったが、ついに宮廷歌人となったのだ。この頃の歌は「白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく」(一夜を過ごした朝の別れに涙の露が袖に落ち、吹き来る秋風が身に染みます)、「たづね見るつらき心の奥の海よ潮干のかたのいふかひもなし」(あの人の冷めた心を探ってみれば、もう何を言っても気持が戻らないことが分かった。潮が引き干上がった潟のように何も貝=甲斐がない)などがある。

後鳥羽院をバックにつけ歌壇の第一人者となった定家は、歌合の審判になるなど絶頂を迎え、翌年、院から新古今和歌集の選者に任命される。ここから4年間の歳月をかけて膨大な数の歌を選定していくことになったが、後鳥羽院と定家は互いに一家言を持つ激情家だったことから、好みの歌を巡って大激突。たとえ相手が上皇だろうと、歌に関しては頑固に折れることを知らない定家(まして相手は18歳も年下)は院を憤慨させ、徐々に関係が険悪になっていった。

その後の定家は歌を作ることより理論等の研究に興味が移っていく。歌論書の執筆の傍らで将軍源実朝の歌を通信添削もしていた。1216年(54歳)、自分のベスト作品集『拾遺愚草』を制作。1220年(58歳)、ついに定家と後鳥羽院の緊張はピークに達し、激怒した院は定家を謹慎処分(歌会の参加も禁止)にした。
ところが翌年に後鳥羽院は鎌倉幕府を打倒すべく挙兵し(承久の乱)、完敗した後、隠岐に流されてしまった。定家の境遇は一気に好転し、高い官位を得て生活が安定した。歌壇の大御所として君臨した定家は、かねてから古典を熱愛していたこともあり、自らの次の仕事として、『源氏物語』『土佐日記』など様々な作品を、後世の人々に正確に伝える為に筆をとって写しまくった。
1232年(71歳)、後堀河天皇より新たな歌集を作るよう命を受け、官位を辞し出家して選歌に没頭、三年後に『新勅撰和歌集』をまとめあげた。
1236年(75歳)、それまでの歌集制作の総決算的な意味合いで『小倉百人一首』を選出した。※カルタになるのは戦国末期にトランプが入って来てから。」
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic11.html


◆2 大山崎と百人一首
「阪急電車開業前、大山崎や天王山、水無瀬川と起伏に富んだ摂津の地形が、路線の延長を困難にしていた。当初は芥川がある高槻市~西院間だけの開業だった(昭和3年)。往古の平安京西部から南部は、それこそ都人から見れば地の果て、黄泉の国であろう。
その西院(さい)駅前には高山寺が置かれており、賽の河原の旧跡が残されている。そういう地獄の一丁目のような魔界の入り口だった。もとは淳和天皇の離宮があった場所でもある。

「この世とあの世の別れの場、ひとつの境界線が西院にあったと思われる」(蔵田敏明)

ちなみに筆者が京都で知ったエピソードをいくつか挿入しておこう。
大山崎の水瀬川は和歌、百人一首にも扱われている場所であるが、百人一首は悲運の死を遂げた親王の和歌を要所要所に配してある。編纂者藤原定家は百人一首の和歌ひとつひとつの場所を一幅の絵になるように配置し、番号をふったと言われ、水無瀬は最終目的地だとも言われている。定家は水無瀬川を死霊の行き着く先であると考え、そこでゆえならぬ死を向かえねばならなかった貴種たちの怨霊が解放されるのだと考えていたのだとも言う。水無瀬に境界線を感じた人もいたのだ。
http://6126.teacup.com/kawakatu/bbs/27

天王山トンネルがかつては事故のメッカだったことはよく知られている。そして天王山と言えば明智光秀最期の場所でもある。

天王山の京都側は山城国乙訓郡である。平安京の前の都・長岡京がここにあった。そして継体天皇の弟国宮もここにあった。
継体の宮は、不思議なえにしだが、南東の木津川沿いにも山背宮があった。仏法、神道双方の鬼門に、なぜか宮を持ったのが継体大王である。
長岡京はわずか10年の命だったわけだが、その終焉の鍵は呪詛だったと言われる。長岡京のはじ、大山崎と男山が見えるあたりの淀川沿いに大量の人面土器が出ることはすでに書いた。」



以上「民族学伝承ひろいあげ辞典The Kyouto/伊勢物語、天王山、芥川、水無瀬川 」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52738102.html



◆3 百人一首は歌織物
 《秘められた水無瀬絵図》

◆不思議な歌織物
「百人一首の百首の歌を、たて十種よこ十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、隣り合う歌どうしが上下左右ともに「合わせ言葉」によってぴったりと結びついてしまいます。定家は全知を駆使してこの条件に合う歌百首を集めたらしいのです。ほんとにすごい合わせ方、ジグソーパズルも真っ青なテクニックですね。定家は何のためにこんな事をしたんでしょう。

◆浮かび上がる水無瀬絵図
この百首の歌を並べた歌織物の右七列分は、右の画像のように自然の景色を読みこんだものと考えられます。その中の合わせ言葉や歌詞を絵に置き換えていくと、何とそこには新古今のふるさと水無瀬の里が浮かび上がります。水無瀬は京都の西南、長岡京の南に位置し都にほど近い景勝の地で後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地でもあります。浮かび上がる水無瀬絵図に定家の後鳥羽上皇に対する思いが感じられますね。

カラー絵図→http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin02.html
マウスを置くとその歌人の歌が浮かび出るようになっている。是非一見!
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◆藤原定家の秘められた思い
承久の変が挫折し、後鳥羽院が隠岐に流されて水無瀬離宮は荒廃していきました。定家は引き立ててもらった恩人としての後鳥羽院に、密かに心をこめて百人一首を選定したのでしょう。歌織物と水無瀬絵図は、たぐいまれな和歌の才を生かした定家の秘められた思いを今日に存分に伝えている」




◆4 大山崎・水無瀬川。岩清水八幡宮・水無瀬離宮と鳥羽上皇そして鎌倉の山崎
大阪府島本町山崎は京都府大山崎町に接していてサントリー山崎蒸留所で有名。
のちにここ大山崎の宝積寺を模して、鎌倉洲崎にも宝積寺が建てられたという。
それで旧名の洲崎を改めて山崎と言うようになった、という碑文が鎌倉山崎の北野天神社にある。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category22-12.html
(この記事にもまた何かミステリーめいた事件が)

天王山の戦いで秀吉が本陣をしいたのが山崎の宝積寺である。

「南に水無瀬川が「つ」の字に流れていて、東で桂川に合流している。桂川は宇治川、木津川とここで合流して淀川になり南下して大阪市へ向かう。南にはるばると広い河原が広がり北に天王山を望む。天地水明の四神に守られた地である。
 そこに水無瀬神社がある。後鳥羽上皇が好んで訪れた水無瀬離宮跡地である。
 後鳥羽上皇の下で働いたのが藤原定家(さだいえ/ていか)だ。小倉百人一首を選定した歌人である。
 百人一首は万葉集から後鳥羽上皇まで、歴代の歌人の歌が揃っている。だけど文学的に優れた歌を集めた、というわけではないらしい。もっといい歌をこの人は歌っているのに、と、不思議に思われているそうだ。その謎の百人一首についての本「百人一首の秘密 驚異の歌織物」林直道 著 青木書店1981年(2009年新装版2刷) を読んだ。」
「 水無瀬離宮から東南東の方向へ2,5kmに石清水八幡宮がある。一方鎌倉の長谷観音の真東には由比若宮がある。1063年に源頼義が京都の岩清水八幡宮を勧請して創建したお宮だ。元八幡ともいい、鶴岡八幡宮は源頼朝によってここから移された。

 水無瀬離宮の北を流れる水無瀬川の更に北に、東大寺という地名がある。奈良の東大寺の寺領であった場所だ。東大寺と言えば奈良の大仏だ。一方鎌倉にも大仏がある。稲瀬川の北だ。」

「後鳥羽上皇は1205年に最勝四天王院を作った。鎌倉幕府調伏、祈祷によって幕府を倒そうとしたのだ。
 1221年承久の乱で、後鳥羽上皇はついに倒幕に兵を挙げる。順徳天皇は4歳の仲恭天皇に位を譲り、上皇になって参戦する。このとき鎌倉幕府の北条政子は有名な演説で幕府軍を奮い立たせ、上皇の軍を壊滅させた。
 後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡島へ、流罪となった。

 小倉百人一首はこの後、1235年に定家によって編集された。99番の歌が後鳥羽院、100番が順徳院だ。
 定家の作った百人一首による水無瀬川離宮の地図、同じ地図を鎌倉の上にも展開させた人たちがいた」
http://homepage.mac.com/kamekokishi/100.html

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◆喧嘩しても後鳥羽上皇をしのび続けた定家
つまりそういうことになる。

次回、鎌倉の山崎

 





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