◆振袖火事
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■明暦の大火
「明暦3年(1657)正月18日昼頃・未の刻(午後二時)、本郷丸山町本妙寺から出火、おりからのはげしい北西風にあおられて、湯島、浅草、八丁堀、佃島、まで広がった。前年の11月から80日あまり雨が降らず乾ききっていたうえに、強風に吹きたてられ、方々に飛び火したのである。
翌19日、未明に一旦鎮火したのもつかの間、昼前に再び小石川伝通院表門下、新鷹匠町の武家屋敷から火の手があがり、北の丸の大名・旗本屋敷をはじめ、江戸城本丸・二の丸・三の丸をも焼いた。4時頃より風はますます激しくなり、中橋・京橋の町屋や四方の橋が焼け落ち、逃げ遅れた人々の累々たる屍は、南北3町、東西2町半のあいだにも及んだという。
さらに同日夕刻、麹町5丁目の町屋から出火、山王権現、西の丸下、愛宕下の大名屋敷に延焼し、増上寺よりさらに南の芝口の海手につきあたり、燃えるものがなくなって、20日の朝鎮火した。
この火事で、本郷から芝口までの60余町が焼け野原になった。橋は江戸中60余個所のうち、浅草橋と一石橋がかろうじて残った。土蔵は9千余あったが、災難を免れたのは1/10もなかった。死者は10万人を越すといわれ、無縁仏を弔うために建てられたのが、両国の回向院(えこういん)である。なお、本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。」
http://www.geocities.jp/widetown/otona_906.htm


「麻布の質屋の娘・梅乃は寺小姓に一目惚れし、その小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせて愛用していましたが、ふとしたことで死んでしまいました。両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやりました。

当時こういう棺に掛けられた服とか仏が身につけているカンザシなどは、たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちがもらっていいことになっていました。この振袖もそういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って別の娘の物になりました。

ところがこの娘もこの振袖を愛用していて、しばらくの後に亡くなったため、また棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。寺の湯灌場の男たちもびっくりしましたが、またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。

ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。

今度はさすがに湯灌場の男たちも気味悪がり、寺の住職に相談。死んだ娘たちの親も呼び出されてみんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、寺で供養することになりました。

それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。この寺は本郷丸山本妙寺という寺です。

住職が読経しながら火中に振袖を投じます。

ところが、折しも強い風が吹き、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。

そしてその振袖は本堂の屋根に落ち、屋根に火が燃え移りました。

おりしも江戸の町はその前80日も雨が降っていませんでした。

この屋根に燃え移った火は消し止めるまもなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。

この火事で亡くなった人は10万人以上。

世に明暦の大火と呼ばれていますが、この火事の発端から「振袖火事」の異名があります。」
http://www.ffortune.net/social/seso/nihon-edo/furisode-kaji.htm


 
■火元は本妙寺でなく阿部家
「明暦の大火は通称振袖火事とも呼ばれ、史上最大の火事で歴史上では本妙寺が火元とされている。 この火事により108000人の命が失われた。しかし、本当は本妙寺は火元ではない、幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。当時、火事が多く幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、寺に対しては一切お咎めなしであった。大火から三年後、客殿、庫裡、六年後に本堂を復興し、十年後には日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている(触頭とは幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願・諸届を上申達する役)。さらに隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から、毎年明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。
真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。」
「 
■明暦の大火は放火?
放火説の根拠は、大火以前の江戸は都市として限界の状況にあり、大火後に復興都市計画が見事に実行されたことにある。当時の江戸には放火がしばしばみられたことも放火説が出されるゆえんである。
江戸は堅固な江戸城、城周辺の譜代・外様を意識した武家屋敷と寺院の配置、河川への架橋の禁止、92門といわれる城門など、軍事都市であった。大火以前急速に膨張しており、創設期の軍事優先の都市計画では対処できないところまできていた。大火の前年、遊郭吉原の日本橋人形町から浅草への移転が考えら、幕閣が江戸の改造に乗り出そうとしていた。
封建時代とはいえ都市の改造には、説得と補償問題など時間を必要とするものごとがからみ、容易でないことは明白であった。外様大名の屋敷は動かせても、譜代・御三家や幕府首脳の屋敷、格式ある寺院の移転は至難のことと思われ。幕府は公共の理由で土地を収用した場合は代替地を支給し、時に移転費用を支出していた。大火災は大きい犠牲を伴うが、見方によれば都市改造を一挙におこなう格好の機会でもある。ここに幕府発案による「放火説」が浮上する因がある。
大火を機に江戸の都市は整備され、区画整理や神社仏閣の移転、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われた。江戸城を防備するため隅田川には千住大橋しか架けられていなかったが、川向こうの本所方面に逃げられずに焼け死んだ人が多かったことから、大火後、本所方面の開発に合わせて、万治2(1659)年、隅田川にはじめての橋として両国橋が架けられた。焼失した江戸城の天守閣は、町民の復興を優先させたため復元されることはなかった。
 
■明暦の大火後の下町(墨田区・江東区)
市街地拡張のために移転されたものに吉原がある、それまでは今の人形町あった。浅草には多くの寺院も移転し、結果的に繁華街として賑やかになったのも火事のおかげといえる。 」
http://www.geocities.jp/widetown/otona_906.htm

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めぐり巡って振袖が
女の情念乗り移り
いつから噂となったのか
そいつぁ仏様でもわからねえ

■振袖火事の真相 
大火後の本妙寺の復興振りは正に目覚しい。すべてに厳罰主義に徹した幕府のこの厚遇は、粉飾的なる振袖の話による原因が大火の真相とは、とても思えない。何故に例外ともいえる穏当な処分がとられたのであろうか深い疑問を残す。この明暦三年正月一八日の天気の記録は、朝から強い風が吹いていたことが明白である。関東の空風は黄塵天を覆って昼なお暗くなる程で、このような日に火を燃すが如き不謹慎な行為はあり得ない。本妙寺の門前には加賀前田家があり、周辺には寺院及び大名屋敷が立ち並んでいた。
本妙寺の寺報によると、大火の翌年から老中阿部忠秋より数表(十五俵)の米が、大火の回向供養料にと本妙寺に届けられている。阿部家は本妙寺の近隣に住んでいたが檀家ではない。また供養料にと言うのであれば、この大火の為に幕府が建立した回向院がある。にもかかわらず、この供養料の行為は幕末まで続き、明治維新後は金額(金十五両)によって続けられ、大正十二年九月の関東大震災に至って終了している。本妙寺に対して阿部家は、実に約二百六十余年にわたって供養料を送り続けた。
http://www.geocities.jp/widetown/otona_906.htm

阿部忠秋はときの老中であった。その大家の失敗を世間に知らせることはできない。
ゆえに為政者側があらぬ話を作り出したのである。
阿部家のこの火事での死者へ回向はなんと260年間に及んでいる。そういう点でも、この火事の原因が老中阿部家の失火であることはおよそ推測できるだろう。

娘たちの怨念とは実は、大火で焼け死んでいった江戸町民たちの怨霊の仮の姿だったのである。

このように怨念は長く消えない。
しかし民衆には権力に対してなすすべがなかった。
せめて話を膨らませ、真実を匂わせようと芝居にしたばかりである。
本当はこの事実のほうが怪談だったと言えまいか。




状況劇場腰巻お仙・振袖火事 横尾忠則作




 さて、これを陰陽五行に当てはめると、興味深い内容が浮かび上がる。

 まず、梅野が恋に燃えた1654年は午年。火気のもっとも盛んな年である。
 そして、亡くなった翌年は未年。火気ばらみの土気の年である。
 これは、土気の中でも最も強い力を持っているとされる。
 これは私の見解にすぎないが、火気に生み出された恋は、翌年の妖気を孕んだ火気によって、あやかしの念を持ってしまう。
 さらに、これに木気が関わる。
 出会いは春。亡くなった日と火事の起こったのが1月。どちらも木気である。
 『木生火』で、木は火のパワーを増幅させる。
 また、梅野の振袖は『紫縮緬』。木気の青と火気の赤を合わせた色である。
 それが、翌々年の1657年、酉の年に災いをもたらした。この年は金気の中気である。
 『火剋金』──
 金の年は木の力を得た火の妖気に剋されたと解釈できなくもない。
 さらに出火の始まりが未の刻、一時収まった火が再び燃え上がったのが巳の刻、ともに火気の時刻であったことも見逃せない事実である。


創作にせよ、よくできた話じゃあありませんか。








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