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奈良県御所市に広がる広大な遺跡群
葛城氏居住地か?
先祖代々の土器棺・古墳・方墳・居館跡・水祭祀遺跡・巨大柱・鏡・製鉄際羽口・鉄滓・日本最古の銀加工品・水祭祀の木樋の数々・それにともなう土器・埴輪・はそう・・・
ありとあらゆる遺物・武器・祭祀遺物がぞくぞくと出る。
4世紀後半から5世紀全般にわたる大遺跡群である。
この遺跡の前では唐古鍵も纒向も、小さなミニ国家にすぎなく見えてしまう。
彼らの遺跡はさらに北方の馬見古墳群まで広がる、大勢力である。




◆室宮山古墳(室大墓)出土家型埴輪と極楽寺ヒビキ遺跡出土丹塗り高殿復元図
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◆周辺詳細地図・位置関係・遺跡内遺構を網羅
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葛城山と金剛山を見上げる奈良盆地南西部。
武内宿禰子孫氏族の集合する広大な土地。
葛城氏・紀氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏・的臣・羽田臣らが衆参した大遺跡だろうか?
室宮山古墳はかれらの祖先の大墓前方後円墳である。
しかし遺跡群と同時代の王墓にはむしろ西北部の掖上鑵子塚(わきがみ・かんすづか)古墳がふさわしいようである。

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となりあって東側はかつての吉備王家、大伴氏・物部氏らの古墳時有力連の居住地。

思い出すのは仁徳天皇の后・葛城磐之媛が、天皇が愛した八田皇女との浮気に怒って故郷葛城へ帰るシーンだ。あのとき后は難波から淀川を遡って木津川で筒木(京都府八幡市)から大住へぐるっと遠回りして、なぜか渡来人・ヌリノミの居宅へかくまわれる。そこは隼人と大祖人・武内宿禰ゆかり有智の臣(内臣)が住むところでもあった。ヌリノミは韓人で、后のメノトでもあったのだろう。
后はわざわざ難波からそうは遠くもない葛城に帰るのに、相談役のヌリノミや内臣の有力者を頼って遠回りするのである。その大住は内臣由来の山背国有智郡にあって、武内宿禰を祭る内神社が隼人たちによって祭られている。葛城氏は武内宿禰の子孫である。

ここ葛城・御所には鴨氏もいた。葛城鴨一族である。やがて掖上から朝妻に秦氏が入れられたという。
中国・朝鮮と葛城集団のえにしはさらに深まったことだろう。


纒向を上回る遺物の充実。
目からうろこが落ちる実力。葛城氏。
さすがに大王の外戚。倭五王時代から続く「臣」の筆頭であり、卒彦は外交官だった。

室宮山古墳はこれまで葛城襲津彦の墓ではないかとされてきた。けれど南郷遺跡の人々とはやや時間的な差がある。南郷の人々の直接の王墓はやはり北西にある鑵子塚であろうか。するとその人物とは?
宮山から出た形象埴輪には直弧文入りの盾もあった。それが果たして葛城氏の祖である襲津彦のものなのか、あるいは同族だった弓矢の氏族・的臣のものなのか?あるいはまた蘇我氏か?
今後。宿禰の系譜はずいぶんと見直されねば鳴らないだろう。隼人との関係も。九州との関係も。また狗奴国・奴国との関係、はたまた熊襲との関係などなどなどなど、南北九州氏族との三世紀以前の関係にま言及する必要があるだろう。



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資料参考
『葛城の王都 南郷遺跡群』2011年


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