◆呪怨と呪詛の保元の乱

近衛天皇は、生母得子が鳥羽上皇の寵愛を受けていたため、崇徳天皇の中宮・藤原聖子を准母とし、わずか2歳で崇徳天皇に代わって即位する。
治世中は鳥羽上皇が院政を敷いた。だが、病気がちで15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を藤原忠通に告げたという(『台記』仁平3年9月23日条)。
17歳で若死したため子は無く、鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。ちなみに、彼の死は藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れたという。

失明しかかったり、わずか17歳で夭折するのは、あきらかに毒を盛られていたからに違いない。これが平安末期の怨霊信仰の実は正体である。
久寿二年、七月二十三日、近衛みまかる。
それから約ひとつきのち、巫に天皇の霊が乗り移ったと言う。
乗り移った近衛の霊は巫女の口を借りてこう言った。
「先年、ある者が朕を呪い、愛宕護山(あたごござん)の天公像の目に釘を打ったゆえに、朕が目が明らかでなくなり、ついにはこの世を去ることになった。(父・鳥羽)法皇はこれを聞いて使者を遣わし、像を見ると確かに釘があったゆえに、愛宕の僧侶を召して問うたところ、五・六年前の夜中に釘を打った者がいるので、母・美福門院(得子)及び関白(藤原)忠通は、入道忠実と頼長のしわざと思い、法皇は二人のことをにくんでいる」

こうして頼長に呪詛の冤罪がかけられる。
『台記』で頼長は「愛宕護山に天公の像があることさえ知らなかった」と書いている。
天公とは天狗のことか?
しかし『愚管抄』は「ある人が語った」として「頼長の呪詛」とし、
『古事談』は頼長がみかどを呪詛するときに、官幣大社ではないふるいやしろがないものかと捜し歩いて呪い、だからみかどは死んだと書く。

この冤罪はあきらかに得子と後白河側にいた長男忠通の作り話である。
そして近衛を呪詛し砒素を飲ませて夭折させたのは、あきらかに反対勢力・・・崇徳院側にいた母・璋子と藤原教長だったのだろう。
これは怨霊呪詛合戦なのである。
醜い時期天皇争い。

保元の乱はこうして始まり、双方にそれぞれついた源平は明確に敵対関係となってしまう。
源平の確執はこの戦いから初めて現実的となった。これがやがて義経という新たな怨霊を生む前触れである。

保元の乱で頼長は流れ矢を首に受ける。苦しい息の下で、今一度父・忠実に会いたいと願う。しかしすでに頼長は朝敵側の人である。父は立場上会うわけには行かなかった。「対面かなわず」との返事を聞き、頼長は舌先を噛み切って悶絶死したのであった。(『保元物語』)

そして崇徳は流されてこれまた壮絶な死を遂げる。後生菩提にと書きしたためた五部の大乗経を仁和寺に贈ろうとしたが後白河側近の信西は強硬にこれに反対。願い叶わず、崇徳は流れる血で経の奥に大縁となる誓状を書いた。

崇徳の亡骸を焼く煙は讃岐から京へと流れていったという。

崇徳と頼長の怨霊はまず清盛の娘で安徳天皇の母・建礼門院(時子の娘・徳子)にとりつき、お産に祟りなさんとした。清盛はこれを知ると頼長に急遽正一位・太政大臣を贈り、院には崇徳院の称号を贈った。崇徳院の呼称はこのときからである。

その後も二人の怨霊の祟りはやまず(藤原経房『吉記』)、朝廷は議論のうえ、保元の乱の故地・春日河原に粟田宮を建てたばかりか、遷宮まで執り行った(『百錬抄』)。

しかしまだまだ異変が続く。
崇徳院神殿の床下から七匹の蛇が出現、中の一尾は白蛇だった。

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おまけ
悪源太・源義平
保元の乱のあとの平治の乱では、敗者源義朝の長男・義平が捕縛されて処刑されることになったとき、首を落とすのが難波三郎経房だった。清盛の側近である。義平は三郎にこう言ったという。
「うまく切らねば食いつくぞ」
「くだらん、そんなことができるものか、今から切られてしまうものが」
「今は食いつけずとも、百日のうちに怨霊の雷となってきさまを蹴り殺してくれるわ」
その後、三郎は体調不良になって箕面の滝にうたれて気分転換しようとする。滝つぼに入り歩いていくと、水のない場所に遭遇しそこはなぜか竜宮であった。

清盛は長く病にふせっていたが、思い切って出家することにした。すると不思議なことにみるみる病気は平癒したという。まあ、どれもこれも作り話だろう。病気快癒の祝いに清盛以下平氏うちそろって布引の滝へ出かけたが、三郎経房だけは不吉に感じて同行しなかった。しかし友人がそんなことを武士が言うかと揶揄したので、思い直して酸化する。するとにわかに滝つぼの場所の天が曇る。
「あしはこれを畏れていたのだ。先年、悪源太義平を切ったとき」「雷となってけり倒す」と言われたそのときのにらんだ眼が忘れられんのだ」
すさまじい雷鳴がし、頭上を黒雲が覆ったと思うと、三郎の体はこなごなになって飛び散ったという。

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怨霊を畏れたり、にわかに入道となるのは、その人物がいかに悪事で成り上がったかの証明である。
怨霊などいるはずもない。ただ敵対するものが投薬や呪詛冤罪や暗殺するだけのことである。

人を殺さなくても、現代の社長や政治化などが、引退間際ににわかに宗教づいて、日ごろほったらかしてきた墓地を掃除したり、剃髪したり、捨ててきたふるさとのお墓を探してみたりするものである。こうなるのはみな、若い頃から他者にひどい目をさせてきた懺悔のつもりなのであろう。生臭かった奴ほど、棺桶に近づくとにわか信者になる。

だから中世の武士なぞは、もうあっちもこっちも入道だらけである。なぜなら武士はどれもこれも人殺しだったからである。藤原のような公家でさえ坊主になる。よほど手ひどい仕打ちで政敵を貶めてきたのだろう。

まことに人の世はお笑いである。


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