◆日本(にほん・にっぽん)国名はいつから?
国名とは対外的なものと、対内的なものとふたつの概念・表記・読み方があるものである。
ここをちゃんと把握しておかないと、勘違いや紆余曲折がおきやすい。
世間の左右イデオロギー間での日本開始意見の相違なども、まさにここにあると言える。

・・・・・・・・・・・・・

◆対外的国名としての「日本」の始まり
①天武天皇(672年 - 686年)年間直後に『大宝律令』が成立する。
701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立した(神野志隆光)

②689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められた(吉田孝)


(『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、『日本書紀』の潤色説が強い。)


これ以前は
対外的に国名はなかった。
ただ諸外国が倭人の住む地域という意味で「倭」「倭国」と便宜的に使っていたものを取り入れ、最初は「わこく」、それを当時最も大きな政権のあった大和地方の「ヤマト」を読みとした。
大和の範囲が拡大していき政権地域を「やまと」、国号を大倭→大和(おおやまと)としていくが、天武朝前後になって、飛鳥時代に聖徳太子が関わる生駒山麓地名のクサカ江(孔舎衙)を日のもとの孔舎」と枕詞になっていたものを採用したのだろう。これが日下であるので、「下」ではゲンが悪いからか「日本」として「ひのもと」と読ませるようになった。これを国名にしたものの、「ひのもと」では外国で読みにくく、漢音の「ジッポン」や呉音の「にっぽん」を採用。
しかし当時の大和畿内地域の音読では濁音や撥音便がないため「じほん」→「日」の文字なので呉音の「にほん」とした。平安時代までは貴族社会では「にほん」であったが、平民には「じっぽん」は読めていて、一般の民間では「にっぽん」とも「にほん」とも読まれそのまま現代まで来たのであろう。日本政府はどちらの読み方にも規定していない。

ジャパン・・・常識ではマルコ・ポーロの「ジパング」(黄金の国)からとされるが、近代中国語発音の「ジーパングォ」由来が正しかろうと最近ではこれが定説となっている。

マルコ・ポーロが見聞録に書きとめた「ジパング」とは、当時の黄金産出地を考案すると東大寺にメッキ黄金を提出した東北の出羽金山周辺であろう。百済王敬福が発掘した出羽の金をのちに牛耳ったのが奥州藤原家である。
すなわち奥州の人々はここから東北こそが日本、日本中央は奥州にありという着想を生み出したと思われる。
これは一種の奥州式中華思想とも言えよう。

日本の領域は、蝦夷征伐や隼人平定で次第に拡張していっただろう。
奈良時代までの「倭国=やまと」は極めて狭い範囲の西日本の西部域で、筑紫君平定で北部九州まで伸びたのが継体大王時代つまり飛鳥直前である。その前はせいぜい畿内とその周辺にとどまっており、その前は北部九州が倭国=わこくの中心地である。九世紀に隼人と蝦夷を平定し東日本・南九州も範囲となるが、隣接した東海・関東は相変わらず独立した連合体だったと考えられる。大古墳を作り続けて、それがおしまいになった7世紀以後、これも完全に日本となったと見れば、やはり天武に壬申の乱で協力した時点で東海・関東は正式に天武の「日本」の傘下に入ったのではなかろうか?

中世には「ひのもと」であるが、これは内戦時代で、あまり対外を意識せずに済んだからで、外国にはにほん=日本だったはず。国内では「ひのもと」で通る。
琉球では日本はあいかわらず「やまとんちゅ=大和の人」である。ひとことも日本とも日ノ本とも言ってこなかった。
これは琉球が日本よりは中国に所属すると考えていたからであろう。


先に書いた松前藩主が松前=えぞは日本ではないと言ったのは、えぞがまだ織田豊臣の時代は日本でなく、徳川時代初頭になってようやく国土と考えられ始めたことを教えている。『浅野家文書』には秀吉の「関東出羽奥州日ノ本まで」という言葉がある。
また後白河天皇宣旨が『今堀日枝神社文書』の保元二年11月11日日付にあり、近江保内商人への諸国往復自由の範囲として「東日下(関東?)、南熊野之道(熊野道)、西鎮西(大宰府の管理範囲の九州)、北佐土嶋(佐渡島)」とあるから、平安後期~源平時代あたりにはそうだったことになるのだが、実はこの書物は15世紀~16世紀の偽書だとされており、それが中世~近世の常識だったのだろうと考えられている。
「東日下」の「ひのもと」をどこまでにするかが問題である。
東海か、関東か、東北か?

日本国号を「日出る処」から「日が昇るところ」からだという常識がある。
しかし現実には日本から日が出ることはない。地球にはもっと東の国がある。
これは畿内大和地方から見た狭い列島内での東であるから、漠然と東の国というのが正しい認識である。一方西方は古墳時代あたりではせいぜい真西は出雲でおしまいで、九州は西南になるから鎮西という言葉はまだ九州を指す言葉として登場しない。それが聖徳太子ははるかに彼方の中国を「日没する処」と考えたところがグローバルなのである。この思想はもともと太子がうやまった仏教の大元である天竺の近くという中国に対する最大の賛辞である。そして隋の煬帝はそれ読んで怒ったと思われているが、中国では今でも「日没の西方にある偉大な国」が中国だと思っており、別に怒る理由もないのである。

安東大将軍とか日ノ本大将軍という言葉も、日本が東にあって、東アジアの極東の盟主という意味である。
だから日本は「ひのもと」であるがそれは日が昇る土地というよりも世界の東の端っこという意味が強かったことになるだろう。

その後の第二次大戦後の領地範囲については、イデオロギーが錯綜するので近現代研究家に譲る。ひとこと、当時の勝利国の戦後処理がかなりいい加減だったことだけ申し上げておく。現代の諸世界のもめごとの大半はこれが原因である。

こうしたささいな揉め事が続く限り、地球連合など遠い概念で、それどころかもう一度リベンジ合戦が起こる危険性は常にあると言える。

人類がひとつなら、どこまでが自国だなどという中華思想は必要ない。
われわれは地球号の同じ乗組員である。
ところがどっこい人間は狭い船内でさえ席を取り合い、機関室は機関室で派閥を持ちたがる生き物なのでまじでやっかいである。めんどくさい生き物、人類。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PS
テポドンが沖縄に落ちたら、沖縄県民も少しは防衛の必要性を感じてくれるだろうか。
米軍がなくなれば、日本と沖縄は丸裸になる。
安全保障がなくなれば、日本列島はずたずたにされることだろう。東アジアの片隅で。


押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・