ヒンドゥー教とジャイナ教寺院群が建つインドのカジュラーホ遺跡は官能的姿態の彫刻が有名。
10世紀から12世紀に栄えたチャンデラ王朝の寺院は25残っているが、かつては80以上もあったという。
13世紀に侵入したイスラム教徒によって多くの寺院建造物が破壊された。
禁欲的なイスラム教徒には、ここのエロスむき出しの建造物は破壊の対象でしかなかった。

なにゆえにカジュラーホの人々はこのような愛欲そのものの神々をあがめたのか?

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「逆立ち交合」と名づけられているが、どうみてもこれは寝そべった神との騎上位交合である。

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左は足裏に化粧する天女、右は背中をかく女


カジュラーホの土着の信仰では、愛欲・肉欲・官能こそが聖なる行為であった。
神々に奉仕する娼婦たちは天女とされ、それは奉仕でもあった。

そもそも宗教の本義は国家と人類の繁栄のためにある。セックスはまさに子作りであり、それはまさに人類の増加と国家の元気の基である・ただ、世界の宗教のほとんどは官能や愛欲を戒め、そのことで聖なる観念を表現しようとしてきた。そのほうが表になって、人間の持つ綱紀粛正の時代には受け入れられやすかったのである。しかしながら裏側では、すべての宗教の本義は子孫繁栄であり続ける。それは宗教のどれにも隠されたウラ・本体である。

仏教もキリスト教も、そのほかのいかなる宗教にも、それはある。唯一イスラム教だけがかたくなに禁欲を全面否定する。飲酒も喫煙も肉食も、すべての喜びを彼等は否定する。だからこそ日常はギスギスし、常に敵を摸索し、娯楽とは戦うことだとさえ考えているかのようである。

悪と聖、その両義を広く認め、表と裏を持つゆるやかさは宗教に限らずすべての観念にゆとりとうるおいを与える。悪のすべてを否定すれば世の中はイスラムのようにぎすぎすし始め、人殺しが娯楽になってしまいかねない。いいことも悪いことも認める懐の広さが必要である。

ヒンドゥーも、片側は禁欲的であるが、一方では攻撃的で、残虐で、あるときはこのような愛欲をむしろ全面に打ち出す宗教である。禁欲は時として人を極端な方向へ導くのである。開放の時間、ケースは必要だった。

それは生命の奔放な開放、精神の開放である。

ひるがえって、今の日本のギスギスした人間関係、だめとなるとなんでもかんでも蓋をするPTA的な方向性は、おしなべて幼稚なイスラム的な全面禁止と同類である。ためとゆとりのない現代日本人は、いまや一億総チクリ民族となり、あれもだめ、これもだめで自分たちの自堕落を覆い隠そうとしているように見える。キリストは言った。「誰が石もてうてるのか」

この世は冤罪で満ち始めた。
まるで全員が警官になったように。
非常に危険な兆候である。

いびつで偏ってゆく世界に今、ぼくたちは生きている。


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