◆王仁
「王仁(わに、生没年不詳)は、記紀に記述される百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系の学者とされる。

『日本書紀』によると、王仁は百済王の使者阿直岐(あちき)という学者の推薦を受け、応神天皇の招待に従って応神天皇16年2月に百済から渡来し、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の師となり、後に帰化した学者である。」



◆王辰爾(おう・しんに)
●延暦九年七月の津連真道(つのむらじまみち)(菅野朝臣真道)の上表文
「応神天皇の御代に来朝した百済の近仇首王(貴須王:第14代百済国王)の孫、辰孫王の四世の孫に当たる」
これはあとで述べるがまず仮冒である。

● 敏達天皇元年五月の条
「高麗の国からの国書を誰一人解読することが出来なかった中で、王辰爾ただ一人が読み解いて、天皇の激賞を受けたと云う記事があり、また、高麗の奉った文書は烏の羽根に書いてあったので誰も読めなかったが、彼は羽根を炊飯の湯気で蒸した後、柔らかい上等な絹布に羽根を押しつけて文字を写し取り、読むことが出来たと記している。この烏の羽根の故事は「烏羽の表(からすばのひょう)」と呼ばれて、後世、『懐風藻』序文の中に引用されている」
作り話であろうが、少なくともこの高麗とは朝鮮半島のいずれかの国のことであろう。高麗国などという国は当時ない。百済か伽耶か高句麗だろう。
漢詩集『懐風藻』が引用したのならもしや漢文だったか?
なんにせよ羽に文字を書く風習を知っていた人であるから、半島でも書記官だったのだろう。

●履歴
「生年: 生没年不詳
6世紀中ごろの百済からの渡来人。「船首王後墓誌」には「船氏の中祖・王智仁首」とある。『続日本紀』延暦9(790)年条の百済王仁貞の上表文には百済の貴須王の孫王孫王が応神天皇のときに渡来し,その曾孫の午定君の3子のひとりに辰爾の名がみえ,この時から葛井,船,津の3氏に分かれたという。『日本書紀』欽明14(553)年条には蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し,その功で船長となり船氏の氏姓を与えられたとする。敏達1(572)年条によると高句麗の使がもたらした鳥の羽に書かれた国書を王辰爾のみがよく解読できたので天皇に近侍するようになったという。これらの伝承は船史氏が西文氏の王仁の伝説をまねて作ったもので,実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系の百済人であろう。」(鈴木靖民)
http://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E8%BE%B0%E7%88%BE
筆者も南朝系と見る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

葛城襲津彦が伽耶から連れ帰った渡来人、あるいはその後帰化した百済か伽耶かにいた南朝系渡来人であろう。
●一族・子孫
船史(ふねのふひと)・・・王辰爾自身
津史
葛井(ふじい)史
白猪(しらい)史・・・王辰爾の甥・王胆津(おう・いつ)
菅野などの姓をを得て拡がる。

これらはすべて地名や職称である。
史は書記官で、あるいは倭王武時代の上表文作成に関わった可能性もある。
上表文の漢文体はどうみても中国人書記官がいたことを思わせる。
あくまで可能性ではあるが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●王辰爾の孫
「王後の墓が柏原市松岡山にあり、その墓から出土した墓誌銘は「船王後(ふねのおうご)墓誌」として有名である。
・百済の仇首王の流れを引いた貴種であると称するのは擬制で
・応神天皇の時に来朝したと称する程の古い渡来ではない
・来朝の始祖とする「辰孫王」と云うのも、王辰爾(王智仁)から作られた名前に過ぎない
などと研究者の間では見られている。

◆王仁は来ていない?
「「王仁」(わに博士)と云う人物は、実在の人物ではなく、その名は、この王辰爾(王智仁)から作られた名前であると山尾幸久氏は「日本国家の形成」(岩波新書)の中で断ずる。(鈴木と正反対の説である)
記紀の記すところによると、太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は阿直岐(あちき)を師として経典を学んでいたが、天皇がある時、阿直岐に「汝より優れた博士がいるか」と訊ねると、彼は王仁の名を挙げた。そこで天皇は上毛野君の荒田別、巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わして、王仁を召した。それに応じて王仁は来朝し、論語十巻、千字本一巻を貢進し、菟道稚郎子の師となったと云う。彼の子孫は西文(かわちのふみ)氏と称し、文、武生、桜野、古志(こし)などの諸氏となって広まった。
 延暦十年四月の文忌寸(ふみのいみき)最弟の上表によると、漢の高祖の子、鸞の後裔である王狗が百済に移り住み、王狗の孫に当たる王仁が仇首王の時に招かれて本朝に渡来したと述べている。
 しかし、これらも総て創作である。第一、千字文と云う書物は六世紀初頃に作られたもので、応神天皇の頃には未だこの世に存在していない。また、記紀が記す王仁の渡来事情なるものは、津連真道の上表文のなかにある辰孫王の渡来事情とほぼ同じものである。

百済王敬福が黄金九百両を献上した功によって、聖武天皇から賜った交野郡中宮の地と云うのは、王辰爾(おうしんじ)の旧館であったと三松氏(百済王氏の後裔)系図が記しているので、六世紀後半に敏達天皇の朝廷で活躍して船氏らの祖となった王辰爾(王智仁)も北河内に足跡を残した人物の一人である。」


「こうして、船氏ら王辰爾の後裔と称する氏族と、文氏ら王仁の後裔を称する氏族とがあるものの、それらの始祖である王辰爾と王仁とについては、早い時期から混同されてしまっていたようである。それと云うのも、もともと王仁と云う名が、王辰爾(王智仁)と云う名前から作られたからに他ならない。

そして、王辰爾後裔を称すると、王仁後裔を称するとにかかわらず、彼らはもともと六世紀頃に半島南部の弁韓地方(伽耶地方)から散発的に渡来した、出身地も始祖もばらばらの人たちが、東漢氏や秦氏の興隆に刺激されて次第にまとまってゆき、その過程で、実在の人物で、しかも朝廷に重用された王辰爾の事を核にして、その始祖伝説も作り上げたものと山尾幸久氏は述べている。彼らは六世紀から七世紀にかけて、しばしば有能な事務官僚として用いられている。」
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/ohsinji.htm

少なくとも百済王氏が白村江敗戦で移住してくる前から王一族は日本に来ていたことになる。『日本書紀』が書く、美作国の白猪史記事が正しいとするなら、王氏は欽明朝には日本にいて、王辰爾の甥っ子である胆津(いつ)という人物が欽明から地名の白猪姓を賜ったことになる。

◆鈴木説か山尾説か?
百済がさまざまの博士を送り込んだのは半島情勢が悪化した飛鳥時代の称徳時代の話である。だから応神朝に贈られたというのは作り話であろう。まして千字文など持ってきてもいないと考えるほうがいい。だから山尾説がいいように思える。
王仁が先か、王辰爾が先かとなれば、来たのは王辰爾だけであり、実際の来朝は欽明暦年間だろう。その甥の白猪史が登場するのが蘇我稲目の時代なのだから、まず王辰爾が生きていた時代は欽明~敏達、せいぜい推古までは無理。だから飛鳥時代初頭であるとなる。
だから日本に漢字が正式に入るのはこの時代でいいだろう。ほぼ仏教伝来の直前。


・・・・・・・・・・・・・・・・

『日本書紀』はあとの時代の事実を、先の時代にあてこむことが非常に多い書物である。つまり『日本書紀』のすべてが嘘八百なのではなく、対外的に、中国に対して見栄を張るための国史なのであるから、「前倒し」が多いのである。なかなか可愛い背伸びをして見せているのだ。だから『日本書紀』を全否定するわけにはいかない。これをもって『日本書紀』はウソで固めてあるなどいと考えてしまうと、日本史は何もかもウソだらけになってしまう。木簡などの考古資料を付き合わせれば、王の一族が存在したことはまず否定できないのである。しかしながら王仁博士などという名前は三つの国内記録にしか出てこない。
本当に嘘八百なのは、それらを曲解してきた学者・学説そして過去の教育者である。

・・・・・・・・・・・・・

地震科学者もまさにそうであるが、場合によっては震災では、情報を自ら捜し求めようとしなかった住民の、人災だった一面もあるだろう。政府が発表するのを待ち、自治体の指示を待つという受身の姿勢は、災害時には通用しない。『日本書紀』の判別も同じことだ。自ら求めて真偽を確めようとしないものは災害にも歴史の謎にも立ち向かったとは言えまい。なんでもかんでも他者のせいにする態度は理解できない。想定していなかった、考えていなかったのは政府、自治体だけではない。個人個人がすべての情報を見極める気持ちがないのなら、今後も同じことが繰り返されてゆくだろう。
原発爆発と聞いて即刻その場を立ち去るのは基本中の基本である。いちいち政治の指示を待つまでもない。自己判断すべき問題。なぜなら被害は直接個人に及ぶもので、それは個々の人生の徒然の事故なのだから。なんでもかんでも政治指導を求めるのは子供の発想である。歴史もまったく同じ。「うそばっかり」と言う前にどれだけ本を比較してみたか、である。


押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・