◆厭魅
アジア全体に広がっていた先史時代からの原始的信仰の一要素である「森羅万象に神(精霊)が宿る」という思想が基。
そこから「人型(ひとがた)の物には魂が宿る」へと変化発展。
「念を込めた人形(ひとがた)には魂が宿る」が曲解されて→「相手に見立てた人形を作れば、念が相手に届く」
→「人形を憎い相手に見立て、念を送って呪う」=厭魅へとどこをどういうわけかへそ曲がって誕生した呪い観念。
8世紀末から9世紀の日本の政情不安の状況下、政治的策略によって非業の死を遂げた人のえん罪が崇りをなし疫病などの災異 をもたらすという御霊観念が生まれた。新たな災異変異にあたって御霊の鎮魂鎮祭は専ら道教思想だけでなく神祇・仏教の預かる所 ととなる。

◆呪とは
このように「呪」とはそもそもの始まりは神への願いであって、一言で「呪」であり「念」と同等の祈願だったのであり、今で言う人を「呪い殺す」などの西欧的な黒魔術のような観念が大流行したのは日本では奈良時代から長岡京・平安時代からである。それは呪詛とも言うがむしろ「アンチ呪」であり、縄文時代の土偶破壊や古墳時代の破鏡とはちょっと意味合いが異なる。むしろ現代人が風邪を治すには他人に移すのが一番と言うのに近い。

円熟した律令制のもとで、官人たちの出世に大きく関わった人間関係から生じる恨み・妬み・嫉みである。簡単に言えば現代のサラリーマン出世悲話と同じような、ひどい上司への恨み、同僚に先を越されたつらみ、あるいはこれは全世界共通、全時代共通と言える男女間の三角関係のもつれなど、まあ言うならば下は犬も食わない低次元の人間模様から、上は政治体系に関わるような裏工作にまで厭魅は広く使われた。有名なのは丑の刻参りなどもこの一種で、いずれも「ひとがた」を使用し、これに恨む相手の顔や名前を書いて、1 その屋敷の床下に埋める 2人知れず闇夜に人形に杭を打つ 3 土器に相手の顔を墨書して水路や川に流すなどの行為に及んだ。

こうしたひとがたの原点は陰陽道の「撫でもの」に由来するといわれる。
撫で物とは要するに阿倍清明らが使う「形代」(かたしろ)である。
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◆蠱毒厭魅
そのほかに蠱毒厭魅(こどくえんみ)という中国伝来の呪術もあった。
蠱毒(こどく)とは、古代において用いられた、虫を使った呪術のこと。蠱道(こどう)、蠱術(こじゅつ)、巫蠱(ふこ)などともいう。動物を土中に埋めてその毒気を取り出し使用したり、犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。日本のガマの油なども言わば蠱毒を薬に転じた品物だろう。

「器の中に多数の虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて呪いをする」という術式が知られる。(この場合の「虫」は昆虫だけではなく、クモ・ムカデ・サソリなどの節足動物、ヘビ・トカゲなどの爬虫類、カエルなどの両生類も含む)
これは、古くは殷・周時代の甲骨文字からすでにそれと思われる文字が出てくるから、人類の底流にある思いなのだろう。

◆厭魅厭勝の術
また中国にもひとがたを埋める風習があり、さらには道教の兵法秘術ではひとがたに息を吹きかけて兵士や海獣とへんげさせて戦わせる戦術まで出てくる。これはあくまでお話であろう。『西遊記』で孫悟空が毛をむしって人に変えたりするあれである。「厭魅厭勝の術」という。

◆厭魅の罪
いずれも、どこの国でも見つかれば厳罰である。
厭魅は八虐の一つとされ、犯せば徒刑(懲役刑)に処せられる。

◆厭魅返しの術
どこの世界でもこうした人を呪う呪術が横行するが、これを逆手にとって人形を証拠品として無罪の罪をなすりつける戦略も当然ある。と、言うよりもむしろこちらのほうが実はうわさとしての厭魅を広めたのではないかと思う。そしてこっちのほうがはるかに確実に相手にダメージを与えられるのである。なぜなら証拠品さえ掘りだせば相手はそれだけで厳罰を受けるのだから。こっちのほうが恐ろしい「厭魅返しの術」だと言える。
よい例が前の記事で紹介した藤原頼長であろうか。
近衛天皇を呪殺したと噂を立てられて失脚する。まあ、そう言われても「なるほど」と誰もが思うくらいの人物だったということだろう。
ちなみに現代の法律では呪詛・厭魅には実刑がない。つまりそんな非現実的な殺傷方法などありえないからである。

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呪詛や厭魅で人が死んだり衰弱したり、あるいは逆に加持祈祷で死に掛けていた者が生き返るなどというのは、そもそもそういうことを大半の人々が信じていたこそ成立する事象であり、つまりそういう主観的時代をこそ「古代」と呼ぶのである。現代でまじめにそういうことを信じている者とはつまり「生きている化石」「古代人」だと言えることになるだろう。
身は現代に生きていながら、心は常に古代にある。そういう人のことを人間シーラカンスと呼びたい。
ところが現実には、主観的古代にバーチャルするあまり、実際にはそれでは相手が衰弱しないからこそ、直接手を下す者が現れてしまう。元が古代厭魅趣味なものだから、そういう者の殺傷方法や処理方法は常に異常である。

このとき困るのは、それと知って事前に告発したくとも、厭魅証拠品をいくら提出しても現代警察では相手にしてもらえないことだ。なぜならさっき申したように、現代刑法では呪詛も厭魅も犯罪ではないからである。怖いのは呪詛が利かないと知ったあとの彼らの動向である。あたまにきているからいっそう残虐非道のやり方をするからだ。呪詛している間は何も実害は起こらない。それで弱るのは呪詛そのものではなく「あいつがおまえを呪詛しているらしいよ」という第三者の耳打ちなのである。その後の衰弱は呪詛が利いたのではなく、本人の心労によるところが大きい。つまりやはり呪詛や加持祈祷は「気のモノ」であることになる。そういう意味でその人を殺したのはむしろささやいた第三者であることの方が多いことになる。知らなかったら気に病むはずもなかったものを・・・。まるで踏み切りの遮断機内や横断中の道路の真ん中で、うしろから「危ない」と声を掛けられて、振りかえっているまにぐわしゃっとひき殺されるようなものである。これも呪詛と同じで罪ではない。

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