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青森県五所川原市八甲田山某所
http://www.rhc.renesas.com/company/tsugaru.html


●日本の豪雪地帯及び特別豪雪地帯指定図
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http://www.sekkankyo.org/zenkoku.htm

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●豪雪を生み出す歴史的環境変動のダイナミズム
○日本海の拡大
「海面が上昇する。最寒冷期の二万年前の海面は、現在より八〇~一四〇メートルほど低下していたと考えられている。その後、一万八〇〇〇年前頃から上昇を開始し、晩氷期のアレレード期には、マイナス三五メートル近くにまで、上昇してきた。しかし、その後につづく新ドゥリアスの寒冷期には、再びマイナス四五メートル前後にまで低下した。そして、一万一五〇〇年前の新ドゥリアスの終焉を物語る温暖化を境にして、海面は急速に上昇を開始した。日本海には対馬暖流が流入し、日本海は拡大した。冬、日本海側に大量の雪をもたらすものは、日本海から蒸発した水蒸気である。その水蒸気がシベリアからの冷たい風によって運ばれ、本州の中央山地にぶちあたって上昇し、雪となって降る。対馬暖流の流入によって、日本海の表面水温は上昇した。このことは水蒸気の蒸発量を増加させ、日本海側の積雪量を増加させたとみることができるのではないか。

○雪と人間のたたかい
冬の雪は、日本海側を白い沈黙の世界に変える。晩氷期以降、日本海側では積雪量が増加し、後氷期には本格化した。このことは、植物のみでなく、大型哺乳動物にも大きな影響を与えた。後期旧石器時代から中石器時代の遺跡の分布をみると、現在の豪雪地帯にあたる秋田県・山形県・新潟県の内陸部に、多くの遺跡が立地する。また北陸地方や渡島半島の日本海側にも多い。ところが、縄文時代早期に入ると、こうした日本海側の多雪地帯からは、遺跡数が減少する。その傾向は縄文時代前期までつづく。このことは、縄文時代早期以降、多雪化のため、日本海側は住みにくくなったことを示しているのではないか。この多雪地帯に人類の居住地が拡大するのは、縄文時代中期に入ってからである。中期には、多雪環境の下で生活し得る適応形態が完成したとみることができる。このように、後期旧石器時代以降の東日本と西日本という、東・西に対立する地方色に加えて、縄文時代早期以降には、日本海側と太平洋側という地方色が出現し、これが現在まで、表日本・裏日本の差という形で、受け継がれているといえる。」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/10/000357.html

●世界最大の豪雪記録とヤマトタケルの死
滋賀県伊吹山・・・1927年2月14日の記録で積雪量は1182cm!(12メートル近くが一度に) 90年近く経過 した現在も破られていない。
「日本海側へ大雪を降らせる偏西風だが、これは福井県の若狭地方にも、同様に吹き込んでくる。しかし、若狭地方から滋賀県にかけては、豪雪地帯特有の高い山がなく、ほとんどが標高1,000mにも満たない。

その為、風は琵琶湖を飛び越え、初めてぶつかる伊吹山に大雪を降らせるのである。

つまり、ロシアからの冷たい風が日本海側から太平洋側へ抜けるときの通り道にあたる為、伊吹山でこのような積雪記録が観測されたのだ。


さらに、伊吹山の雪の激しさに関して調べていくと、また、興味深い情報を発見した。

なんと、学生の頃に耳にした『古事記』『日本書紀』に伊吹山が登場するのである。

今からおよそ1300年前、現在に残る最も古い歴史書である『古事記』。そして、政府の初の正式な歴史書である『日本書紀』が相次いで完成した。

そこには、神話時代から飛鳥時代までの日本の歴史?が記述されている。『古事記』『日本書紀』の登場人物の中で最大の英雄ともいわれる日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と伊吹山の関連があったのである。


『古事記』では、日本武尊は伊吹山の荒ぶる神の退治を頼まれる。山のふもとで「この山の神など素手で倒せる」と豪語した。

さらに、山へ入ったとき、巨大な白いイノシシ(日本書紀では大蛇の姿)に出会うと「こんな神の手下はいつでも倒せるから帰りに退治する」とさらに暴言を吐いた。

実はこの白いイノシシこそ山の神であった。

山の神は暴言に怒り、大氷雨を降らせて、それがもとで日本武尊は病没したとのことだ。その山が伊吹山である。」
http://www.v-logi.jp/column/120116.htm

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厳冬期の伊吹山遠望
http://yama-kioku.blog.so-net.ne.jp/2010-01-16
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「日本武尊、更尾張に還りまして、即ち尾張氏の女宮簀媛を娶りて、淹しく留りて月を踰ぬ。是に、近江の五十葺(いぶき)山に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解きて宮簀媛が家に置きて従に行でます。膽吹山に至るに、山の神、大蛇に化りて道に当れり。」『日本書紀』


ヤマトタケルが伊吹山で出会った神の化身・白猪がこの豪雪であったとすれば、なかなか面白い。
伊吹山の麓を抜けて東国へ抜ける不破の関がここにあり、まさに「ふは」=破りがたき関門の意味も見える気がする。
往古のいくさは農閑期の冬場に多い。不破を抜ければそこは関が原である。
東国を平定して筑波から鈴鹿へ向ったヤマトタケルも豪雪=神の前に西国へ戻りたかっただろう。
筑波山もまた太平洋側では空っ風が大雪を降らせる山であることが伊吹山遭難を暗示しているのかも知れない。
つまりヤマトタケルの東征は冬季の出来事だったと読むことも可能なのである。

熊襲・出雲・吉備・筑波・伊吹山・鈴鹿・・・ヤマトタケルの目的地はつねに古代製鉄のメッカである。
伊吹山にも伊福部という製鉄集団がいたという。
その製鉄技術は為政者には必要欠くべからざる武器鉄器・農具鉄器という生産と軍需の源であった。
その伝承は東国の雄族尾張氏の神剣草薙剣や伊吹山の伊福部鍛冶集団を占拠していた琵琶湖の息長氏から出る継体大王系譜にも関係している。武力と権力の相関関係は歴史を動かしてきた。その深いかかわりは織田信長や徳川家康にとどまらず明治政府までも、常に鉄を求めることになる。

伊吹山の雪・・・
尾張氏の草薙剣という「靭ゆき」=盾を無くしたタケルは白鳥となって黄泉の国へ飛び去ってゆく。その姿にはモデルのひとりである雄略が滅ぼしたヤマト葛城氏=景行天皇氏族の末路が重なって見えるのは筆者だけであろうか。
おそらくタケルの墓が見つかれば、そこには必ずや葛城の呪模様である直孤文に覆われた棺があることだろう。
孤文という邪馬台国時代からの再生の呪模様に、大きくばつをほどこされた再生拒否の河内王朝の呪模様が。
宮山に眠る葛城襲津彦の石室真上に並べられた直孤文盾埴輪のように。

二度と蘇ることなかれ。祟り成す卑弥呼や神功皇后とともに。タケルはのちの義経と同じ祟る神になった。


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