南九州の旅から早や一週間、ようやく肩に憑りついていた縄文世界の地縛霊も去り始め、ぼちぼちと今回の狗古智卑狗に出会うツアー紀行文をものしていこうと思う。せいぜい無理をせず、一日一ヶ所、画像を交えてののんびり記事にしたい。
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今回の旅は異常とも言える好天に恵まれ、まさにこの三日しかなかった、とも言える、稀有な旅となった。これもひとえに有料にも関わらず参加していただいた埼玉の渡来人研究会、東京の菊池プロジェクト、そして福岡の装飾古墳今昔紀行管理人諸氏の心がけと、奇特な救援のおかげである。終りかけているわが人生最後の花道を飾っていただいたこと、心に深く刻み込んで、感謝。謝辞の言葉に代えたい。


さて、ハードスケジュールにも関わらず、今回その予定地のほとんどすべてを順調に回ることができた。時間割をしてくれた蕨手氏にはご苦労様でした。
寸分の狂いもなく、すべての予定地を時間通りに回ることができたことは、今後のツアー計画に彼が必要であることを如実に示している。ぼくなどはただの発案者、コーディネーターに過ぎなかった。ただ、彼の運転する車にゆられていれば、間違いなく問題なく、その目的地に連れて行ってくれたのである。もちろん、彼のその正確無比なところを知っていればこそ、参加を求めたのであるが、要求にまさる仕事振りであった。しかもいつもの現地での詳細すぎるほどの装飾解説に、参加者一同感心しきりで、夜の酒盛りでも、なにかとりつかれたかのように饒舌であったのが印象的だった。

●今回の巡回コース一覧
★1日目の西米良人吉は


かわかつは早朝5時前に大分を出発し、阿蘇越えを目指したが、案の定、好天続きとはいえ標高1700メートルの久住山街道に入ったとたん真っ白なゴリゴリの凍結に出くわし、とってかえして竹田市へ。ここから国道57で波野町を。凍結注意の標識多発の中、大型トラックのうしろをおっかなびっくりでそろそろと阿蘇を降り、9時前にはすでに熊本市の北熊本SAに到着。ここは一般道から高速へ歩いて入れるため、ここで待ち合わせた。

一方蕨手氏は空港で9時過ぎに関東組を拾い→北熊本SA(かわかつを拾い)→人吉IC→→宮崎県西米良村郷土史家N氏宅で対談
総距離229.8 km
所要時間3時間 58分

西米良歴史資料館→京ヶ峰横穴墓群→大村横穴墓群
渡来人研究会が販促用ビデオ撮影

時間的にゆとりがあり補欠の王宮神社に立寄れたのは収穫

人吉→植木民宿予定より少し早く到着できた。
総距離97.5 km
所要時間1時間 37分



★2日目、菊池山鹿玉名浮羽遺跡探訪


植木→菊池市→山鹿→玉名→浮羽
早朝、木柑子二つ塚の異形の石人を見られた。
菊池市歴史民俗資料館館長に解説付きで見学。菊池氏のおかげである。
ここでは希少な石造の翳()を見られ、また館長秘蔵の後漢?式細線式銅鏡を見せていただいた。

予定通りに鍋田・長岩・石貫穴観音・石貫ナギノと横穴墓群を巡回し(ここで客人スカイトレッカー氏が参加。久々に放浪のバイカーの顔を見られた。解説感謝)→道の駅菊水で昼食
蕨手氏は渡来人撮影に付き合い、菊水で合流。ここであるハプニングが起きるのだが、それは別記。

玉名→浮羽
総距離98.1 km
所要時間1時間 44分
ぶっとばす蕨手車にポンコツ軽のかわかつ必死でくらいつき
浮羽市吉井町資料館着予定時刻15時45分
日曜にもかかわらず美人(?ある女子オリンピック金メダリストのよく似た方)日ノ岡、珍敷塚で16時開始75分見学
におつきあいいただく。感謝。蕨手解説さえ渡る。かわかつ肩の痛みがここで派生しダウン。


浮羽→日田三芳の刃連町旅館宿泊
総距離31.7 km
所要時間47分 日田着19時
ここで日田市の歴史研究会からの宴会に参加。大盛況で、しかも美人少女漫画家にも会えた。
小野さん、どうもありがとうございました。アンコウ鍋実に美味でした。

★さて、仕上げの3日目



早朝、かわかつ道の駅菊水に忘れ物したことに気付く!
日田日下部(靭編)神社→玖珠鬼ヶ城までつきあって別離。

★特記・鬼ヶ城線刻画はほとんどネット上に露出がないが、今回、昭和24年記録にK教授が書き残した
「群鳥・舟」などらしき線刻をかわかつは撮影した。別記、一部掲載予定。

その後一行は蕨手車で予定通り巡回
朝倉市黒川(高木神社?)→八女岩戸山→広川石人山→羽犬像→大川風浪宮
総距離145.9 km
所要時間3時間 52分
羽犬像以外30分要するとして7箇所3.5時間
朝9時出発で大川が終わるのが16時半位。

無事に帰路に着いた。




●今回の主要な教示目的



ATとアカホヤ火山灰地層の全国分布と人の移動
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53996059.html

4~6世紀、九州の靫負部集団が人吉から日田・豊前方面に向って縦断するように並んでいた事実を肌で感じ、なぜ熊襲のいた南部が必要であったかを知るためである。
中央と一口に言っても、それはそもそも北部九州に「降臨」した天孫族・・・すなわち長江・黄河文明人たちの3世紀までの渡来集団の中での勝者が南九州を管理していくという卑弥呼直前の日本列島の巨大な流れが、やがて彼らを伴って・・・案内させて東遷し河内・大和王朝を樹立したというまさしく整合で、あたりきな理論の中にあるものどもである。
纒向に九州の土器がなぜ出ないかの答えは、グローバルな九州海人族たちがいち早く東海・東国に進出し、その氏族となって纒向へ参画したからであり、その頃には東海独自の土器を創出していたからにほかならないのではないか。


さて各地の詳細報告はまた明日。

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