筆者の出身地である大分県は「おおいた」と読むが、『豊後國風土記』では景行天皇が訪問して「よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とあって、もとは「おほきだ」であったらしい。
 
「おおきた」が訓である。
 
「おお=きた」に分解すると、おお=大、きた=分となる。
 
この「分ける」wp「きだ」と読んだかどうかというと表記が「段」で「きざむ」とある。
「きざむ」はもと「きだむ」であろう。なんとなれば「~などの」という言葉にも「なぞも」(~等も)が古いとあるが、など・きだ→なぞ・きざの音韻バリエーションがある。
 
そこで大分地名由来を検索してみると・・・
 
「これまで『日本書紀』・『豊後風土記』史料の「景行天皇九州巡幸説話」が定説との観がありましたが、『大分歴史事典』(後藤宗俊氏解説)によれば、事実には程遠く、確かな文献に拠る限り、「大分」の方が古く、「碩田」説話は「大分」地名の意味付けに後から作られた説話というべき、と考証しています。であれば、「大分」の字義の解釈が問題となります。半田康夫氏は、『大分県の風土と沿革』で、「分」は「段」と共に「キダ」と訓まれていたとしています。渡辺澄夫氏も『大分市史』昭和30年刊で、「キダ」は「段」で、きれめ・きざみ・だんの意、「分」はわかち・わかれの意で、分離の意味において両者はあい通ずる故、「オオキダ」は大きく(大いに)きざみ分けられた所と解される、と述べています。地形が錯綜している事から起こったのではないかというのです。「大分」の字義解釈が諸説ある中で、この説が現在比較的有力です。」
 
と、まさに思ったとおりのことが書いてあった。
すると大分は「大きく分けた国」となり、豊前豊後に別れたときのことを郡名にしたのではないかに行き着いた。
そういえば大分社と書いて「だいぶ」神社が、確か鞍手かどこかにある。あそこも元は筑紫と豊前の境目で、往古は豊前だったはずだ。それが筑紫に編入されたという記念の神社ではあるまいか。
 
 
 
すると葦北が次に思い起こされた。
「あしきた」は以前、「悪しき田」ではあるまいかと書いておいたが、「あし」「きだ」と分ければ大分と同じく、葦原を分けたという国名になる。葦の多い国土。それを分割した?
 
「葦」を「あし」と読むのと「よし」と読むのではあきらかに奈良時代の国名二文字の良字命令以後に「あし」は「よし」と読まれるようになったと考える。だから葦北はやはり葦の国家、それを段んだのだろう。
 
葦北は元、国であった。版図は八代まであった。
[葦北国造(肥)]
葦北(葦分)国造とは葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。国造本紀には葦分と名が記され、また記紀では火葦北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られている。
三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿禰等を賜姓され、後裔としては達率日羅(にちら)、万葉歌人・日奉部与曽布などが著名である。三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている。
 
まさに葦北も往古は「葦分kと表記して「あしきた」だったのである。
 
さらに「きだむ」「きざむ」を考えるに「き」には「岐」の文字もあり、これも分かれたという意味である。
『古事記』に「岐又之神」(木俣神・木股神、別名三井・御井の神)として「きのまたのかみ」が登場する。樹木の二股のところや洞にいる、おそらくニョインから生命が生まれることを聖なることとして神格化された神である。
 
「みい」語源で書いたが、いわゆる三川合流地点での湧水・導水祭祀でもまさに三角の股のところに玉砂利を敷いた遺跡が出てくる。そこで水鳥埴輪やはそうを用いた祖霊祭祀=死者の霊魂が天界で祖霊と交合し、降臨して新たな生命を生み出すきっかけになる・・・の場所こそが「きのまた」「川俣」なのであった。
 
で、そういう三ヶ所から水が集るところを御井・三井と言うのである。だから別名が御井の神なのだろう。
もちろん湧水が三ヶ所あって川が三つ合流する。そういう場所を水分(みくまり・みずわけ)といい、例えば京都の鴨川の三川合流点にある下鴨神社の手前に、三角州の頂点にあたる場所には河合神社がある。
 

 
「かわい」とは「かわあい」である。川が出会う場所。逆に言えば分岐点でもある。
淀川の三川合流は有名であるが、ここの巨大な三角堤には何も無いようだが、対岸の男山には岩清水八幡宮と水神祭祀の神が祀られている。その男山は生駒山地の北の端にあって、巨椋池がまだあったころには、男山は池の葦の湿地帯につきだすような三角形の半島になっていた。
 
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対岸ななめ西北側の淀には興杼(よど)神社もある。
 
 
 「 與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。
  祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。
 
  この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。
  元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)」
 
産土とは、つまりお産をする清めた砂である(谷川健一)。
だからここも祖霊と再生祈願の三角地帯なのである。
 
 
「きのまた神」で以前書いたのが、三重県松坂市の宝塚古墳などで出る権威的Y字型(V字型)杖=王杖である。
 
この形状も、また石見型と呼ばれる楯の形状もみなY(V)になっており、まさに聖なる木の股の形なのである。
ということはこの形状の杖や船のマストや、古代の鎧のような形状もみな、そうした聖なる呪府だったことになる。生命を再生させる祭が水辺で行われるのも、それが巫覡王の仕事だったからで、清める=みそぐ祭祀の意味があり、船などでは魔よけでもあろう。すると九州の古墳に置かれた石人のような兵士もまた鎧を着ており、これも魔よけであることに気づくわけである。
 
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石人は古墳の死者の肉体を守り、やってくる魔物に肉体を食べられる=腐食するのを防ぐ意味で置かれたのであろう。つまり=生命の再生補助の魔よけである。それが魔よけの形状であるならば、そこに描かれた模様もまた当然、まよけの呪模様でなければなるまい。
 
 それが直弧文である。楯に使うのは矢を受けぬための絵柄だったからだ。
つまりスイジガイやそれを象った装飾古墳の双脚輪状文も、それを鋳型にして作った巴形銅器もまた魔よけである。魔をよけるための呪符である。
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こういうつながりでいくと、水辺に水鳥やはそうが置かれたのは、それがみな水=生命=ウズを巻いて輪廻転生をうながすものだったからである。
 
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葛城氏の居棺などでこのY字型の条柵が大量に出ることがある。それで環濠の周囲を囲んだのである。
つまり条柵もまたY字型。屋敷を護るからである。
 
 

 
 
 
 

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