植生から考える考古学を環境考古学などと言う。
その環境を復元する科学もある。
古代の植生や環境についてはほとんど資料がないが、中世の文献や絵詞には豊富な資料が記録され、平安時代や奈良時代の和歌などに残った植物の名が出てくるから、古代から中世室町時代あたりまで、そういう往古からの花や樹木や草本が継続して愛でられ、食べられたことがわかる。
 
盛本昌広『草と木が語る日本の中世』岩波書店 2012 から、その中でも「ほう」というものをいくつかピックアップしてシリーズにしたい。
 

 
 
日本人が古代から食べてきた植物と言えば、最古では縄文時代から今に至るまで1万数千年間も食べられてきた山菜・・・特に蕨(ワラビ)・薇(ゼンマイ)そして栗がよく知られている。
 
鎌倉時代にはあまり記録がないが、室町の安定期には足利義教・義政のような風流な将軍が登場し、突如としてそれまで別の献上物から、紫蕨(さわらび)という文字がよく出てくる。義教はことにワラビが好きだったのか、応永年間に毎年ワラビ献上記録が残された。
 
山菜を加工した食品では、京都で有名な葛きりもこの室町期に始まっている。
 
草もちもこの頃から記録がある。
当初はヨモギの若芽に限らず、むしろハハコグサの餅がポピュラーだったようだ。
共に強い香りで邪気を祓う餅だった。
ハハコ餅は平安時代中期の歌人・和泉式部も食べていたようだ。
 
  花の里 心も知らず 春の野に はらはら摘めるは ははこもちひぞ   『夫木和歌抄』
 
ハハコグサは今でもどこでも見ることのできる、エーデルワイスの仲間である。
 

 
 
 
柳田國男によれば、ハハコグサには地方によって、葉の形から「鼠の耳」「兎の耳」などの呼び名があり、帰化植物の少なかった時代までは、山菜として春の若菜摘みのアイテムだった。
 
四月八日の釈迦の誕生日(花祭り)には、ハハコグサをゲンゲとアザミを使って花御堂の屋根を葺いたという。
 
母子餅は天竺餅ともいい、香りはヨモギより数段高いそうである。
三月三日を往古は「上巳の節供(じょうしのせっく)」といい、香りの強い桃花酒や食べ物で邪気を祓う習慣があった。草もちや母子もちを食べるところは多かった(山中裕1972)。
 

                             ヨモギの草もち
 
 
柳田の明治晩期にはすでに西日本でこの草を使う餅はすたれていたらしい。関東ではまったくこの風習は知らなかったともある。
 

ハハコグサ餅 作り方サイト「ことほぎ日記」http://kotohogibiyori.naganoblog.jp/e106432.html
 
 
 
室町の謙譲記録には「馬草」という記録もある。その品種などはわかっていないが、柳田はスギナではないかとしているようだ。スギナは「馬の砂糖」とも言われ馬が大好物なために、「うまのごっぐ=御供」「うまのおこわ」などの俗称があった。スギナはツクシの親で、旧暦2~3月にこれもよく食べられている。
 
 

 
 
さて、こうした草木を献上したのは誰であろうか?
室町将軍へは花の献上記事が非常に多く、中国から輸入された帰化植物の仙翁花(せんのうげ)などは、何度も記録があるので、人気のある花だったようである。仙翁花とは今のマツモトセンノウに近い種ではないかと思う。自生するフシグロセンノウとは花びらが違う。
 
ナデシコに似た赤い花をつける。京都嵯峨野に仙翁寺というものがあったが、ここが最初に中国から輸入したとも言われている。中国では剪紅沙花(読みセンノウケ)と表記する。仙翁は当て字である。仙人に見えるからか、葉の形が翁のひげのように見えるからか?
 
 

                            仙翁花(ナデシコ科)
 
 
こうした派手な帰化植物は別にしても、とにかく将軍への花の謙譲例は非常に多い、さすがは太平将軍である。
さて、自生する野の花やワラビのような山菜を献上したのは、草刈りと呼ばれた下人である。
名の通り、馬牧や荘園や墓所などの草を刈るのが主な仕事の算所の民である。これを「草刈り散所」と言い、特に武士にとって重要な馬牧の管理を中心としていた奴婢である。
 
摂津国吉井新庄領内として地頭にいくさでの勲功を讃えた書状が出ている。ここを「草刈村」と呼んでいた。(味原牧・淀川区崇禅寺~東淀川区豊里周辺に散在していた・大阪経済大学あたり~)http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/info/books/21_osakashi_no_rekishi/index.htm
 
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味原御牧(あじふの・みまき)
長柄豊碕宮の故地に、孝徳天皇をを弔うために摂津国分寺(草刈国分寺)を建立したのがこの地のはじまり。
東中島の崇禅寺はのちの九州肥後藩主・細川氏の菩提寺である。三宝寺は東淀川区大隈という隼人地名にある。だからおそらく大隈隼人が古代から入れられて、その後渡来系移民の下人など、また蝦夷俘囚なども入れられたのではあるまいか?(Kawakatu)
 
大阪経済大学には行ったことがあるが、淀川対岸からは橋一本で割合わかりやすい。しかしどことなく孤立感のある地形であったように思う。わかりにくくて探した。
中世散所は淀川と神崎川にはさまれた細長い河原にあった。河川で京への往来に便利な場所であるので、刈り取った草や花は京へも運ばれたのだろう。
 
 
 
 
 
こうした西日本の馬に関わった底辺の人々は、草刈仕事の途中に花や山菜を摘み取り、わずかながらも将軍へ献上したのである。武家の上下のつきあいは、宮家に比べると随分近しいものだったようだ。それは武家自体がそもそも渡来や海人系の底辺民族から出てくるからであろう。江戸時代にえた・ひにんと厳格に差別があった儒教の時代とは違い、非常に家族的であいまいもことした、ゆとりある上下関係である。
 
また彼らのような下賎であるはずのものが実は花や草木を愛したのも、やがて戦国時代に登場してくる茶道や華道の創始者がそれこそ底辺賎民出身であることとつながっている。つまり草の民として大自然と共生する暮らしだったからにほかならない。
 
ここではっきりと申したいのは、日本人のこまやかな美を象徴する侘び・寂び・漆器・陶芸・茶道・華道・能楽・歌舞伎・歌謡・漫才・美術・舞・文楽・修験などなどありとあらゆる「日本らしさ」を創出して来たのはすべて彼ら被差別民・漂泊民だったということである。
 
そして今に至る縄文からの食生活や居住区間や円=和の思想などなどもまた、彼らが縄文から受け継ぎ、渡来系文化や海人系縄文文化と融合させて造り上げてきたのが「日本の美」であり芸術だということなのである。
 
 
 

 
次回燃料材とご神木
 
 
「おれは・・・草刈だ」と男前の草刈さんがんばってます。
外国人と結婚する家庭って、もともとからそういう血脈があってのことなのだろうか?