「各種史書上に人麻呂に関する記載がなく[12]、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」[13]と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
 
1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史に見られない。
2.死去に関して律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている」
 
 

「正三位柿本人麿は歌の聖であった。この御代(平城天皇の時代=八〇六~八○九年)に
この人のあったのは、いわゆる君臣合体ということであろう。」
(『古今和歌集』河出書房新社)
 
古今〔905〜914〕仮名序「かの御時に、おほきみつのくらゐ柿本人麻呂なん、うたのひじり 」
真名序には「柿本太夫」とある。
 
 
 柿本氏の人物としては天武2月に. 小錦下(従五位下) を授けられた柿本猨(佐留=さる)とい う人物が紀に見える。

年齢的には人麻呂より年長で兄、叔父かと言われる。柿本一家の家長だったかと思える。
「柿本臣猨など、あわせて十一人に小錦下の位を授けたまふ」(681年)
『続日本紀』「従四位下柿本朝臣佐留卒す」(708年)
和銅元年(708)、従四位下柿本朝臣猨卒す
 
 
(ままに、朝鮮人系サイトで、「さる」は百済高官の官位だなどという偏りまくった意見もあるが、百済の人がやまとことばの達人になれるはずもなく、馬鹿げた韓国人ならではのお笑い説である。問題外。唾棄に値する。日本語は朝鮮語からできあがったなどということをいいたいがための前振りに過ぎず、オーストロネシア言語を基層にした世界最古の言葉である縄文語由来である日本語を愚弄し、先の軍部の愚考をいまもって怨念とする、会津や薩摩の古い主観主義歴史学と同類の、進歩しない古代国家朝鮮半島を自ら暴露したはずべき怨念主義でしかない。)
 
ここで「卒す」とあるように、五位以上の死は「卒す」である。
死去に関して律令には、三位以上は薨(みまかる)、四位と五位は卒(そっす)、六位以下は死(しす)と表記することとなっているが、『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている。

ならば少なくともかつては三位だったが、死んだときは六位まで降格されていたとなるのだろうが、日本の習慣は、生前最高位で死を表現するものなのであるから、「ミマカル」でなければならぬところを、「死す」である。「死す」が六位以下の官位の・・・などと言うと聞えはいいが、要するに六位以下~平民・動物までもが全部一律「死す」なのであるから、五位より下などは虫けらみたいな存在である。

ここを忘れている人が山ほどいる。
 
つまり人麻呂は宮中にあがる歌の聖人であり、天皇に寵愛されたおそば人でありながら、その死は平民・被差別・けだものと同じに扱われているわけである。
 
そもそも歌人などというては聞えもよかろうが、そのような職業は宮廷・パトロンあってこその「虚業」でしかない。つまり一言で言って歌人は西洋で言う王の吟遊詩人や道化と同じ、中国でも王のひまつぶしの相手、囲碁の相手などつとめる歌手や芸人があり、たまさかそのようなやからが王にそっくりだとかいう理由で影武者から、王位を簒奪したりもなくはなかった。
 

人麻呂のかぶる烏帽子は庶民・武家用である

つまり柿本氏の素性はまったく不明である理由もここにあるのではないか?
推測では近江の小野氏から出るとされるが、その本体は和邇氏であるので、これは大和から3世紀に追い出されてしまう氏族の出身になる。和邇氏をこれまでの考察から邪馬台国の宰相クラスだったとすれば、狗奴国=河内王権により近江へ追い出された一族である。その中の小野氏にいしても、飛鳥時代の遣隋使・妹子を祖先にするものの、決してよい出自ではなかったためだろう、旧態為政者たちからは白い眼で見られている。王権はときおり蘇我氏や中臣氏や土師菅原氏などのように、中心から排除されているはずの先住氏族・渡来氏族を抜擢してみせる。これは要するに、そういう二つ、三つの系統の存在し、ときおりそれらの旧来の怨念をガス抜きさせてきたらしき歴史があるのである。そう考えると仮名序を書いた紀貫之の紀氏もまた、そういう葛城系氏族なのであり、彼もまた土佐のような荷もない田舎へ左遷されたのである。そういった怨念があっての人麻呂は三位ではなかったか。
 
柿本氏なども、まことはどこの馬の骨か知れたものではないというのが実情ではないか。小野から出たのがまことなら、その小野氏もまた底辺は先の時代に大敗北した邪馬台国選手のひとりであろう。そもそも「おの」部というものは金属精錬や鉱山開発民であり、それを管理したのが小野氏だったであろう。これは推測よ!
 
 
 


 
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「おほきみつのくらい」
大きな三位・・・正三位、しかし一般的には「おほき」ではなく「おほいみつのくらゐ」が正しい。
大阪の放送作家織田正吉は「おほきみつ」は正三位のことではなく、三つと三つを合わせて六位であるとする。
学説は多くが正三位(しょうさんみ・おほいみつのくらゐ)が正しいとする。

「さんみ」を音だけで律令制度の中に探せば「散位」がある。
散位(さんみ)は

「散位(さんい/さんに)とは、日本の律令制において、内外の官司に執掌を持たず、位階のみを持つ者。
律令制において官司の数やその職員の定員に制約がある以上、職事官あるいは官位相当制に相応しい官職を全ての官人に与えることは困難であり、特に蔭子・位子による優遇が大きかった日本では散位の者が発生することが予想されていた。
 
例えば、蔭子・位子の中で執掌が与えられていない者、致仕や行政整理による廃官によって執掌を失った者、位階の昇進によって次の執掌を与えられるまで散位に編入される者、病気や服喪によって解官された者、白丁・无位(無位)から考によって位階を授けられたものの執掌が与えられていない者、財物などを献上して叙位された者などを指す。
 
在京の五位以上は散位寮に長上し、六位以下は在京の者は散位寮に分番で仕え、地方在住者は現地の国衙に分番で仕えた。彼らは式部省の補任によって散位身分のまま兼帯する形で造寺司などの令制外の機関職員に派遣されたり、国司の補任によって国衙の目代や在庁官人、雑任に補任されたり、その他様々な形態で内外の官司に派遣されて雑務に従事した。後に散位の増加に対応するために定額(定員)を定め、定額から外れた者は出仕の代わりに続労銭を納めて勤務実績(労)の代替とした。
 
なお、「才職不相当(職に見合うだけの才能に持っていない場合)」(選叙令散位条)に散位に配される場合もあり、本来は自称する性格のものではなかった。だが、本来は世襲の地位であり、官位相当制の対象外であった郡司においては位階に叙せられること、すなわち散位は譜第としての性格や課役免除の特権の存在など、一般の農民との違いを示す重要な指標となり得た。そのため、郡司や刀禰など在地の有力者が位階を得て文書において「散位」と位署することが広く行われていた。」
 

いわゆる「散位」とはゆえあって無冠に置かれた、古くは素性のいい、しかしなにかの運の悪いことがあって据え置きされているような番外官位になろう。すなわり「散」とは「ちらかった」である。
前の記事にも書いたが、中世以後、「散所」といえば差別された人々の集う狭いテリトリーを言う。
不幸な歴史があって差別され、たまさかそういう場所で囲われ、要するに別所に押し込まれた人々を「さんじょ」と呼んだのである。「さん」にはそういう意味合いが含まれているのだ。
 
 
人麻呂がなぜ石見で非業の死をとげるのかという答えもそのあたりにあるのかも知れない。なぜ彼が流されなければならないか。これは国史編纂に関わる何かを彼が知った、あるいは旧王家の家臣として反対意見を挟んだことで流刑にあったことは充分に考えられるのである。
 
 
人麻呂というと「とがなくてしす」とか折口とか井沢の空想物語を語りたい御仁も多かろうが、そうは問屋はおろさなかった。人麻呂は奈良時代の被差別対象人物だった。