沖浦和光
 1927年大阪生まれ
 東大文学部卒
 社会思想史・比較文化論
 桃山学院大学名誉教授
 
 箕面村で生まれ、小学二年のとき、父親が大恐慌でリストラされ、幼少の頃、阿倍野区の長屋に移住し育つ。
 スラムのような中で、明治の近代化政策で失職していった多くの遊芸民・香具師(やし=明治以後はテキヤ)・世  間師・布教師を見て育つ。同じく大阪で育った折口信夫の感化を受けて勉学。
 

 
 
●乞食人(ほかいびと)
「「乞食人」とみなされた彼ら遊芸民は、実は異界からやってくる「訪れる神」であると説いたのは折口信夫であった。その逆説的な「まれびと」論が発表されたのは、私が生まれる三年前のことであったが、折口もこの界隈で生まれ育って、毎日のように「ほかいびと」を目撃していたのであった。
 この下町のすぐ横にある聖天坂の急坂を登ると清明丘(せいめいがおか)で、そこは打って変わって閑静な住宅街だった。その見晴らしのきく台地にある清明丘小学校に転校したのだ。」
 
 
「私は1927(昭和二)年の生まれで、敗戦のときは十八歳だった。・・・・・したがって幼少期は、明治・大正時代に連なる昭和前期の文化と民俗の中で育った。
 
 私など戦前世代には、この安倍清明ブームは全く意外だった。少年の頃、「陰陽師」の話は周りの古老から聞いたこともなかった。学校のテキストにも出ていなかったし、先生から教えられたこともなかった。だから若いときは、陰陽師についての知識も関心もなかった。
 理由は簡単だ。明治維新による近代革命で、民衆を無知蒙昧(むちもうまい)にとどめおく輩(やから)として、陰陽道を布教することも、陰陽師を名乗ることも法的に禁止されていたからである。維新の大変革で、千余年の歴史がある朝廷の陰陽寮は廃止され、宮中における陰陽道に関わる祭祀儀礼もすべて廃絶された。
 「山伏」の名で民衆に親しまれていた修験道にも同様の措置がとられた。明治初年からの神道国教化政策によって神仏混淆が禁じられたが、陰陽師や修験者は由緒もよく分からぬ雑多な神仏を祀る巫術系の信仰とみなされ、民間で布教してはならぬと布告された。」
 
 
 
●民間陰陽師も禁止、「役者村」誕生
「近世の民間陰陽師は、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の祈願、災いを除去する加持祈祷(かじきとう)、日時や方位についての占い、竈祓(かまどばらい)や地鎮祭などの儀礼、さらには万歳(まんざい)などハレの日の祝福芸で生活していた。簡便な民間暦の政策販売もやっていた。近世も元禄期の頃から、ドサ回りの人形浄瑠璃や歌舞伎へ進出していった陰陽師集落もあった。その集団が近世末には「役者村」と呼ばれるようになった」
 
 
 

犬神人
 
 
●ヤブ医者
 陰陽師や山伏の仲間には、民間に伝わった伝統的治療法によって、貧しい人たちの病気治療に従事するものも少なくなかった。祈祷だけでは治らないことはよく承知していたので、本草学の知識による漢方治療や鍼灸術も併用した。彼らが「巫術」でもって病を治す在野の医者、すなわち「野巫医者(やぶいしゃ)」と呼ばれていたのである。」
 
 
※このほか大道芸やがまの油売りなどの「啖呵売(たんかばい)」や「香具師」も禁止される。「やし」を名乗れなくなった人々は仕方なく「テキヤ」と名乗った。
 
 
「近世の時代では、これらの巫術師・遊行者・遊芸民は、農・工・商と同じ平人(=平民)身分ではなかった。「エタ」「ヒニン」ではなかったが、雑種賎民系(=いわゆる中世の水呑よりも下)とみなされていたのである。彼らは平人と結婚しないで小さな地区に集住していた。」
 
 
 
※新政府はこれをすべて締め出そうとした。
いわゆる今もこれらの職種の多くは風俗取締法で取り締まられている始まりはここにある。こうした職業の者たちは、中世、鎌倉の神社などに集っていた「犬神人(いぬじにん)」、近畿地方の神社に巣くった「神人」たち同様に、最底辺ではなかったがそれに準ずる地位にあって、それは歌舞伎役者、芸人なども同等の扱いであった。
 
江戸期まではそれでも民間は「先生」とか「巫覡」として尊重したが、明治政府によってすべてが都市にはふさわしくない河原物とされ、山窩同様差別され、取り締まられ、追い出され、狭い地域に囲われて、取り締まられた。
1871年、ようやくエタ・ヒニンの制度は廃止された。これが賎民解放令である。そして各地方自治体別にすべてが「平民」として登録された。しかしこれは新たな政府官憲による囲い込み、同化策であり、差別の構造は相変わらず現実に存続していく。むしろ戸籍に入れたのはそのためであった。
 
現代でも、例えば高島易断の暦が無料で配られてきたのは、それを職業とできなかったためではなかろうか?
 
 
 
●土御門家の「恥ずべき次第」宣言
 
「明治維新における宗教政策の大転換に際して、このように巫術系の布教活動は公的には禁止された。禁じられた「巫」の筆頭格として槍玉に挙げられたのが、民間で活躍していた下級の陰陽師であった。(中世に例えば●●阿弥などと名乗っていた厄払い、坊主もこれである。秀吉の父や家康の父)
 
 その源流を遡れば、「古代」では「巫覡(ふげき)」と呼ばれた集団に行き着く。」
 
 
※巫覡、かんなぎ、記録で最古は『日本書紀』の「豊国奇巫」。秦氏の秦部などから出る古墳土木や金属採掘からあぶれた無職の徒が、巫女、念仏し、オシなどに変身し、口に糊をするようになる。
 
中世では地方でさまざまの呼称があり、「声聞師しょうもんじ」「乞食坊主」「散所神人」「犬神人」「宿非人」などと呼ばれた。近世では「院内」「宿」「産所」「算所」「夙」「寺中じちゅう」など。
 
●人麻呂の三位は「散位」か?
筆者は例えば奈良時代の位階はないが宮中に入ることを許された無冠のもののことを「散位(さんみ)」と呼んでいたという森浩一の説から、「散」という表現は生まれてきたかと考え、例えば柿本人麻呂の伝承に、「三位のくらい」「六位」など分かれる理由は、人麻呂が実は階位のない芸能人としての「さんみ」というあだ名があったのではないかと思うようになった。(別途記事にする予定)
 
「全国の陰陽師を支配していた土御門(つちみかど、阿倍野の清明から出る氏族)家も、
 
「固陋ニノミ流レ秘伝秘事ナドト相唱来リ(あいとなえきたり)恥ズベキ次第ニ御座候」
と政府に上申書を提出してさっさと手を引いてしまったのである。
 
 
 
 
『陰陽師の原像 民衆文化の辺境を歩く』岩波書店 2004
 
 
 

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