筑紫平野総面積約1200平方キロメートル
奈良盆地総面積約300平方キロメートル
関東平野総面積17000平方キロメートル
 
畿内
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最初の畿内の版図は大阪平野と奈良盆地だけである。それが次第に持統天皇時代までには山背盆地、琵琶湖南部、紀ノ川沿線、播磨・摂津へと広がった。今の近畿はもっとひろく、関西とは近畿以西を指す鎌倉時代の版図。しかし網野善彦によれば関東・関西・四国・中国・九州はほぼ同時に作り出されたと言う。一方、関東は当初は不破関以東を「東国」「えびす」→「坂東」と呼称していたが、奈良時代末期には足柄関・碓井関から東を関東と呼ぶようになった。これを頼朝が畿内・西日本勢力に対して「関東武士」と使い始めた。九州は大宰府が「鎮西府」となったときから「鎮西ちんぜい」と呼ぶ。関東の人間の中には、関西地方から以西の西日本全体が関西だと思い違いしている人もいる。しかし西日本の人間は関東が東北まで含むなどとは思っているものはまずいない。首都人の地理感の欠乏を見る。
 
 
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いつも不思議なことは、最初繁栄していた筑紫平野(つくし・へいや。今の学校では「ちくし」と教えるようだが、それではアジアの極東の行き着いた場所「尽くす」という、倭国本体の本義から遠くなる。筑紫は古来「つくし」である。つまり魏志の竹志も当然Thukushiと読むことになる。)の広大な穀倉地帯を一度でも目にした学者なら、たとえかつての大和至上主義学者であろうとも、「九州は平野が手狭で水田敷地がとれなかったから、生産性向上のために奈良盆地に移住した」などという馬鹿げた空想解説は出てくるはずがないだろう。ということは、一昔前の教科書に乗っていたそういう仮説は、大和一辺倒のかたyぽりまくった歴史観や地理感が、まだたかだか30年ほど前には、当たり前のように教えられていた、という証拠になる。
だから嫌いになるのだ。
 
 
地図を見て感じるのは、奈良盆地の狭小さだけでなく、その袋小路のような行き止まりの地形である。これでは攻め込まれたら逃げ場がない。その形状はきらかに西に開いた母の子宮(マトリックス)だと言える。
すると出口入り口である羨道は信貴山(生駒山地)と二上山(金剛葛城山地)の間の一ヶ所しかないことに気がつく。そこに竹内街道と長尾街道、新しい奈良街道、そして近鉄やJRもここをすべて通ることになる。
 
ここを締め切れば、護るに安くなり、突破されればひとたまりもなく壊滅する、まさにガラスのワギナが大和である。
 
 
畿内の首都は、この狭き門を出たり入ったりしている。
それはアジア情勢の影響である。
そして彼らが本当に好きでたまらなかったのは、盆地のさらに扇状地のいきどまりの、おかあちゃんの腹の中だったようである。
 
 
 

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