後期旧石器~縄文時代の日本の植生と食糧事情 3より
                http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/08/000650.html
 

 
◆植生変遷史と古代環境破壊史
10万年前~33000年前 スギ樹林に覆われていた日本列島
33000年前くらいからそこに落葉樹が登場し、針葉樹林との混合林を形成
2万年前 氷河期 東北~中部は深い亜寒帯針葉樹林に、西日本はナラを主にする落葉広葉樹と五葉松・コメ            ツガなどの針葉樹の混生林に覆われた
1万3000年前(縄文時代前期)地球が急速に温暖・湿潤化。日本海側を中心にブナの森が拡大
6500~5500年前 気温上昇。西日本低地帯にカシ・シイの照葉樹林繁茂。
           東日本ではナラ・クリなどの温帯性落葉樹繁茂。
3000年前(弥生時代)寒冷化。稲作と金属器が入り、森林伐採と畑作開墾によって
           弥生人類による環境破壊が開始。
           近畿地方の植生はまだ激しい破壊にはなっていなかった=後進地帯だった。
           弥生の森林破壊は新しい植生を列島にもたらした。
           顕著だったのはアカマツの林の拡大である。
古墳時代     鉄器生産と鉄製農具による一層の破壊が進み、後進地帯でもアカマツへ。
奈良・平安時代 平城京造営によるイチイガシ林の伐採。代わってアラカシ・アカマツが近畿でも増殖。
           仏教導入による金属性仏像の増産が炭材としての森林を破壊。建造物増加も拍車。
           仏像は木製へ。
           河内平野地帯ではアカガシ亜族、周辺ではカシ・シイ。これが平安時代に破壊。
           アカマツが増殖。
           陸奥地方では多賀城など城柵建築でハンノキ・ブナ・ナラが破壊。
           寒冷地ゆえに近世になってアカマツが増大。          
           瀬戸内塩飽(しわく)諸島では奈良時代にアカガシ亜属、部分的にアカマツ。
           それ以外の島々はそのまま照葉樹林に覆われていた。
  浅井治海『樹木にまつわる物語――日本の民話・伝説などを集めて――』フロンティア出版 2007から編集
 
 
 
 
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●燃料としての木材変遷史
昭和50年の、大阪府泉北ニュータウン建設に伴って出土した陶邑(すえむら)陶窯址の分析から、弥生時代のここの燃料材のほとんどはカシなどの広葉樹だったことがわかった。これが6世紀後半にはほとんどがアカマツに切り替わっていた。
 
 
●アカマツの有用性
燃料材としてのアカマツは、その下草は水田肥料に、
木材は藻塩・塩田、製鉄・精銅、土木用材、建築材に使用され、特に瀬戸内沿岸の農耕社会ではアカマツに強く依存する時代が長く続いた。ゆえに近世中盤以降、人口増加による森林資源の枯渇が激しくなり、厳しい利用規制がなされるようになった。

保護されたアカマツ林にはやがてマツタケが多く生え始め、そこは名産地として知られるようになったが、古代からの先進地帯としては衰退してゆくこととなる。アカマツは人の手が加わる環境下で優勢となる植物である。
昭和に入り、燃料の化石燃料化で、炭は衰退。そうなるとアカマツ林もほったらかされ、松くい虫によって急速に減少してゆき、同時にマツタケも減少してしまう。
 
 
このようにアカマツ林は日本人を大きく動かす原動力のひとつであった。アカマツ林が過去の日本の独自の森林に代わって増殖した理由は、人間による自然破壊、農業生産率向上、開墾、水田畑作拡大、鉄器増産にある。これはちょうど明治維新以後の日本政府の打ち出した富国強兵・殖産興業という破壊的政策にまずもってまったく同じ原因だったことになる。古代はゆるやかだったが、奈良時代・平安時代・戦国時代・明治時代など、日本史の政治的画期には、それが急速に進んでしまう。古代史にとって植生史は環境を知るうえで貴重なヒントになる。時代を追ったアカマツ樹林帯の分布図を作れば、そこが弥生時代~古墳時代にかけての先進地帯であったことも一目でわかるのである。
 
●現代のアカマツ分布図
「右の図の赤い点は、日本の中のアカマツ林 の分布を示した図です。九州から東北の青森県まで、全国に広く分布しています。   下の表は、県別のアカマツ林分布面積、トップ5を示したものです。なんと、広島県は、アカマツ林の分布面積は日本一なのです。

 

 
1広島県
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