熊野は平安時代以前から補陀落渡海(ふだらく・とかい)の地で、それはここが九州経由の海人族のメッカだったことに起因する。
 
仏教の教えには「即身成仏」とか「捨身」といった部分があり、進んでそれを実行しようとして、多くの高貴な身分のひとたちが熊野灘に木の葉のような舟を漕ぎ出し、帰らぬヒトとなっている。その数、記録にあるだけでも90件を下らない。
 
一方、道教はあくまでも現世利益を追い求める即物信仰である。それは今の中国人を見ればよくわかるはずだ。
現物志向が強く、物欲を是としている。人が死ぬとおもちゃのお金を燃やし、天国に持って生かせようとする考え方など、その最たるものだ。
 
徐福は蓬莱にたどり着き「平原広沢を得て王となる」と『史記』で司馬遷が書いた。
しかしながら断崖迫る海辺の熊野には、そのような広大な平原も広い湖水もない。
水田を作ろうにも、断崖の先は深い熊野の森である。
杜と滝と岩礁の祖霊の父母のいます土地。
 
ここに波田須(はたす)という土地がある。
研究者たちはこの地名を秦氏に結び付けようとする。
しかし「はた」には二種類ほどある。
いわゆる古代の渡来系雄族だった秦氏と、海人系で波を越えてきたステータスを名にした波多、羽田などの部民である。もちろん秦氏もまずもって韓半島伽耶から舟に乗って移住してきただろうから読みを「はた」つまり朝鮮語音パダ=波を採用して、一族郎党の総称としてきたのだろう。けれど表記に「秦」を選んだ理由が秦の始皇帝の子孫だったとか、あるいは秦国から祖先が来たからとかいうのは、史記の知識から得たあとづけの仮冒であろう。
 
徐福の子孫だった?
いや、時代が違いすぎる。
 
新宮市波田須町に阿須賀(あすか)神社があって、ここに徐福の墓がある。
墓がある=最初の到来地ということではなく、「終焉の地」という意味で熊野の人々はここに墓をセットしたのだろう。それは静岡の富士吉田や丹後や八丈島なども同じである。彼らの認識の影に、口には出さないがまずは九州の佐賀が最初という心が見え隠れするのである。そしていずれの場所も、佐賀の筑紫平野のような「平原広沢」にふさわしき水田地帯を持ち得ない。静岡県なら富士の裾野よりももっと海岸部を選んでしかるべきだろうが、縄文海進を念頭にするのか、あの富士山の裾野にまで海が来ていた・・・それはある時代まで正しい・・・というシチュエーションを作り出している。
 
けれどどこもみな、やはり佐賀県同様に言い伝えが時代錯誤しているものが多い。
それは徐福やその一行の子孫たちが分かれてやってくるからだ、と言われたら反論しようもない。
 
徐福を記紀の神武天皇にリンクさせたい人も多い。
特に熊野は東征神話と重なる土地である。
 
秦氏の存在と、徐福伝説の後世の広まりには関係があるかも知れない。史書を作るとき記紀にもその多くの伝聞は使われた可能性は高い。秦氏も漢氏も、あるいは百済王氏などからもそれはあっただろう。なにしろ、記紀はそういう自己申告を取り込むことで、かえって氏族を統一する方向で書かれている。
 
中国にはけっこう徐という氏姓はあり、徐を名前にする土地もある。
徐福もそういう徐一族の中のひとりであろう。
とすれば日本にも徐さんがいるはずである。そうでないなら徐に近い音を持った氏姓が。
 
(誰だ?「じょじょ」と驚く宮城県は子孫か」などと思ったのは?)
 
不老長寿、不老不死の妙薬は、各地で伝承が違う。コケモモとか見つからなかったでお茶を濁してある。そもそもそういうものはいまだにないのは間違いない。というよりも、不老長寿や不老不死にまつわる伝説のすべては、当の本人たちにはどうでもよいのである。なぜならそういう妙薬を本気で探せるのは大金持ちか大王しかいない時代だからだ。西欧ですらそれを本気で探した王などいない。始皇帝だけが望んだのである。誰も信じてもいない夢物語のために、人を送り出した記録があるのは始皇帝ひとりで、同じように将軍を海に派遣した呉王孫権の望みは軍事的中継基地であった。それはタネと表記されている。つまり種子島だろうか。
 
今、軍事基地が沖縄にあるが、それにはちゃんと歴史も必然もある。中国という大国が南北に分かれて争っていた時代から琉球は、中国が太平洋に乗り出すのを防ぐためのけん制の場所だった。こういうと沖縄県民には申し訳ないのだが、琉球が国家として独立するためには、あまりにも場所が悪かった。中国という国家がある限り、そこはなにがしかの防衛のための施設になる宿命にある。
 
貝の道がそこにあった。
北部九州倭人が欲した永遠の象徴である貝殻の渦巻きのために、琉球人と鹿児島の倭人たちは早くからそこで貝のブレスレットを生産し、また中国の貝貨幣のためにタカラガイを採っていた。だから琉球諸島の「しまんちゅ」も、鹿児島の隼人も、九州の倭人も、そうとう古くから中国や半島と付き合いがあり、知られていたのである。
 

 
蓬莱山は東海の渤海に浮かんでいる絶海の孤島・・・
史記だけでなく多くの中国の史書がそう書いている。
渤海とは会稽のある山東半島の北側にあるさほど広くもない湾である。イメージする広大な太平洋とは無縁の、狭い範囲でしかないが、当時の南方中国人には隔遠の地だったのだろう。もっと広い範囲で考えねばなるまい。しかし日本海まで含めても渤海はやはり太平洋ほど遠くはない。そもそも日本列島は渤海や黄海に浮かんではいない。
 
 
書いている間に、筆者はもう徐福伝説にはあきてしまった。
歴史のロマンなどと人は言う。
しかし一言「ロマン」と言ってしまったら、もう何も追求しないでほったらかすことになる。
だから徐福伝説も筆者はロマン抜きで切り崩したかった。
しかし、これは答えなど出せるはずのない、最初からロマンなのだった。
誰のロマンかと言えば、渡来したもの全部と海人族のロマンなのである。
徐福は中国に帰らなかった。歴史のウズの中に彼も消えていったひとりでしかない。
 
 
 

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