日本の徐福伝承の集中する場所と言えば、まずは九州の佐賀県と紀州和歌山・三重県の熊野であると言える。
特に佐賀県は九州北西部にあって、東シナ海に向かい、中国南部長江周辺の秦の港から大船団が来たとすれば、一直線で到達できる立地にある。しかも佐賀県の唐津周辺には日本最古の水耕稲が出土した菜畑や曲り田遺跡があって、徐福が稲作や鉄器を持ち込んだとする佐賀県の徐福研究者にとっては有力な条件を兼ね備えているわけだ。
 
農学博士の祖田修も、佐賀県の説を有力と見ている(『長寿伝説を行く』「徐福と始皇帝」農林統計出版 2011)。
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ただし、徐福は紀元前200年代の人で、考古学で最古の稲の伝来とは時代的にまったく新しい(日本最古の水田址遺跡は約3200年前つまり紀元前1000年頃にはすでに水稲稲作は菜畑に登場している)。
 
さらに、九州北西部は甕棺という長江流域の墓制も広がった地域でもあるが、最初に列島に稲作を広めて行った人々はここの縄文遺伝子の強い人々ではない。それは博多湾東部の、朝鮮半島辰韓地方(東南部)からやってきて、遠賀川土器を作り、土器と伴に日本海へ広めて行ったのが最初である。佐賀県、有明海に広がっていた縄文的水田とその技法や甕棺風習はやがて立ち消えてしまうのである。また最古の縄文稲作の出土地である岡山県も、日本海からやってきた半島文化の継承者であって、やはり中国からの渡来の痕跡は薄い。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55466099.html
 
遠賀川氏土器、およびその模倣土器の分布と徐福伝説の分布図を比較してみよう。
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東北秋田で重なっている。しかし肝心の鹿児島・熊野にはまったく遠賀川式土器は伝わっておらず、出雲のように多くを出土する地域には今度は徐福伝承が来ていない・・・。微妙な結果である。これでは徐福=稲作は決定打になるまい。
 
 
可能性があるのは、1 徐福は稲作には無関係 2 徐福たちは長江稲作と甕棺風習は持ち込んだが、その後熊野へ移住したために九州や日本海側へは痕跡を残さなかった
であろうが、そうなると菜畑などと同じ稲や技術や甕棺埋葬が熊野に伝わった証拠が必要だろう。海人族の移動は間違いないところだが、熊野で水田はちと難しい感がある。
九州北西部の水田を作っていくのは海人族系縄文人と、持ち込んできたのは半島西南部の人々である。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55542937.html
 
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佐賀県諸富町の浮盃(ぶばい)や金立(きんりゅう)神社や新北(にきた)神社の民間伝承では、徐福は薬草を探しにやってきて、その案内をしたのが「源蔵」という人物で、妻にした女性が「お辰」であるとなっているが、こういう名前はまずもって紀元前二あり得ない名前である。それはこの伝承が江戸時代になって脚色された言い伝えであり信憑性がないことを証明してしまっている。
佐賀県の徐福伝説http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/saga.html
 
新北神社には徐福が植えたという樹齢二千年ともいうビャクシンの古木がご神体となっているが、樹齢二千年では紀元前200年に届かないし、そもそも2000年も生きた樹木は存在しない。屋久島の縄文杉でさえ樹齢1000年とされ、それは自然によって新たな再生があってこそであり、決して一本の杉が単独で1000年生きてきたわけではない。
 
お辰観音が徐福の妻を祭ったというが、そもそも徐福の時代は、中国にはまだ仏教がなく、道教の時代であるので、観音様になるのはお門違いであろう。

唯一有力な手がかりは有明海側の吉野ヶ里遺跡である。ここには中国系渡来人の遺伝子を持つ遺骨があり、朝鮮系と縄文系と中国系が混在していたデータがある。吉野ヶ里遺跡は1世紀~1.5世紀にからっぽになった環濠集落である。すると紀元前にやってきた徐福集団が作ったとしてもあながちおかしくない年代観である。しかしながら、稲作の伝播はここからでもない。おくまでも遠賀川からである。ところが福岡県の徐福伝承は、遠賀川流域や豊前はないのである。
 
甕棺で見るならば、佐賀県から福岡県西部で広がったあと、南下して熊本北部まで降りている。けれどせいぜい鹿嶋あたりで止まる。それ以後、ふっつりと甕棺埋葬は消えてしまうのであるから、時代的に見てもそれは徐福が持ち込んだとは言いにくい状況になる。

そこで佐賀県から熊野へ向かう途中の鹿児島県がつぎに注目されることになる。
串木野市来町に太秦神社がある。始皇帝を祭るということでは京都の太秦にある大酒神社など、秦氏の神社に類似する。これはしかしあきらかに秦氏が鹿児島に多いことの証明で、それが起きたのは宇佐八幡から秦氏傍流の辛島氏が、大隅隼人鎮魂のためにやってきてからではあるまいか?
 
 
来たと思いたいが、なかなか文献と伝承と発掘は一致してくれないようである。
もちろん水田と甕棺だけが証拠品ではない。
徐福はひとりでは来ていない。少年少女を山ほど連れて来たのだし、青銅器文化も持ち込んだだろうし、また道教の神仙思想も持ってきただろう・・・。
 
さて、今後いかがあいなりますやら。
 
熊野へ続く

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