なぜ金太郎と額田女王に関係があるか?
読めばわかる。
 
 

 
◆金太郎と息長氏
「金太郎にはいくつも伝説が存在するが、静岡県駿東郡小山町の金時神社(金太郎が祭られている神社)に記されたものによると、天暦10年(956年)5月に誕生したという。彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供とされる。八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。」
 
「成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。
そして天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となる。名前も坂田金時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となる。なお、他には渡辺綱、卜部季武、碓井貞光が四天王に名を連ねる。」
 
「坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去。享年55だったという。」
 
「小山町の隣にある南足柄市にも金太郎の伝説は多く、その内容は小山町との相違点が多く見られる。
他にも兵庫県川西市の満願寺の墓、滋賀県長浜市など、各地に伝説がある。
静岡県駿東郡小山町の金時神社には金太郎の伝説のあるちょろり七滝や第六天社がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%AA%E9%83%8E
 
 
まさかりかついだ金太郎・・・「まさかり」は製鉄氏族を表すだろう。
源頼光の四天王仲間の渡辺綱は住之江の海人族である。碓井貞光の碓井はヤマトタケル由来であろう。
卜部季武は弓の名人で主馬介といい、弓馬の名人で、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族出身である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9C%E9%83%A8%E6%B0%8F
 
 
このように四天王話には古代氏族の血統をおりまぜてあり、そのすべてが身分的にはもとは部民出身であることを示唆している。ならば坂田金時もまた、なんらかの古代氏族のイメージで作られた主人公の一人であるはず。
 
問題は父親という坂田家である。
【坂田氏/南淵氏】
 応神天皇の後裔坂田朝臣奈弖麻呂の子、弘貞、永河が弘仁14(823)年に南淵朝臣を改賜姓される。
 南淵の姓は、本拠地である大和国高市郡南淵邑の地名に由来する。
 南淵弘貞は従三位参議・刑部卿に進み、天長10(833)年清原夏野らとともに令義解を撰する。
 他に漢帰化族の南淵氏があり、南淵請安は遣隋使小野妹子に従い学問僧として留学する。
 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01234.htm
 
坂田蔵人時行とはこういう系譜があった上で出てきた登場人物になる。
祖先は応神天皇で、直接は息長真手王の子孫になっている。
つまり坂田は近江湖東の地名であり、息長氏由来のウジナである。
金太郎は息長氏出身。
それゆえに伝承地はみな息長氏の部民の拡散した土地である。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
◆額田王(ぬかたの・おおきみ)
「ぬかた」という氏族は謎の氏族だが、父親は鏡王である。
「ぬかた・べ」になると推古の名代部であることは明確に記録がある。
額田部王女=推古、そこに仕えた部民が額田部。

しかし額田王の「額田」は地名であろう。その本体は「糠田」に求めてよかろう。
糠とは砂金・砂鉄など鉱物粒の鉱山師隠語で、鉱物地名でもある。

息長氏系図に糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)がある。
糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ、生年不詳 - 天智天皇3年(664年)6月)は、古墳時代末期から飛鳥時代にかけての皇族。『日本書紀』では他に田村皇女、『古事記』では宝王、糠代比売王と表記されている。押坂彦人大兄皇子の妃。舒明天皇の母。父は第30代敏達天皇、母は伊勢大鹿首小熊の女。同母姉妹には太姫皇女がいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E6%89%8B%E5%A7%AB%E7%9A%87%E5%A5%B3

舒明天皇(おきなが・たらし・ひろぬか)=田村皇子の母親で、ひろぬか」の「ぬか」は彼女由来であろう。
彼女自身は身分の低い采女と敏達の間の子であるが息長系長子の押坂彦人に嫁ぎ、舒明を生んでいる。
糠手とつく人物には、のちに坂本糠手(あらて)臣がいる。

坂本は湖西比叡山麓地名であろう。石山本願寺で有名。
坂田・坂本は息長氏地名と見てよかろう。「あらて」は「荒削りの粉末」で「ぬかて」と同義である。
だが坂本氏の出自は紀氏である。そして坂本臣というのは茅渟(ちぬ)に入った草香部氏の別称と解される。日下部は紀氏から出る。
茅渟は坂本の旧地名である。

舒明の兄弟に茅渟王がある。二人とも息長広姫の子であるから坂本の息長氏をめのとにしたのである。
額田王の姉になるというのが鏡王長女の鏡王女である。今、彼女たちが姉妹だったとう説は下火である。
筆者は同一人物だったと考える。なぜなら記紀で●●王女を「●●の・おうじょ」と捉える前例が少ない。むしろ●●王の女(むすめ)と考察すべきで、万葉集などが伝える鏡女王や鏡姫王などの表記は疑わしく、鏡王のむすめとよむべき。(参考・荒木敏夫2013)。
 
鏡王女には藤原鎌足に言い寄られたというエピソードがあり、額田王には天武と天智との三角関係がある。どちらかが事実で、どちらかは一方を誤魔化すための捏造であろう。和歌の達人として筆者は鏡王女実在、額田王創作を考える。そして彼女の真実の思い人は鎌足だったと見る。天智・天武の確執を言うがために額田王は鏡王女から創作された。
 
鏡王女の墓所は、忍坂山の南西麓の小盆地のまん中、ちょうど相撲の土俵のようで、こじんまりとひそまりかえり、わずかに松籟をひびかせている趣きである。
 
鏡王とは何者か?
近江湖東南部に鏡山がある。豊前田川郡香春町にも鏡山がある。後者は河内王墓がある。
前者近江息長氏のメッカ、後者は秦氏が祭った息長帯姫大目命を祭る香春岳の目の前である。
いずれも息長氏地名であろう。山科にもある。
「しな」は風でたたら・ふいごである。「しなが」は「おきなが」である。
 
 風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何を嘆かむ
                                 ...鏡王女・ 万葉集
 
風によって火をおこし、それによって銅を精錬した鏡造り氏族。それを鏡王女は知っている。
それが息長氏なくしてはできなかったことも。

鏡王が銅鏡を作る氏族だったとするならば、鏡山はいずれも銅山・銅鏡にちなむ地名であろう。つまり息長氏と秦氏による銅山経営から鏡王という不明な人物像は出てくると言えよう。
 
このように、息長氏に関わるエピソードの多くは謎に満ちているが、継体大王以前のもののほとんどは何らかの理由で息長氏の色合いを薄められ、違う氏族のような扱いになっている。そこにはあるキーポイントがあるだろう。
 
 
それは鏡王女が鎌足の妻で、その子供が藤原不比等であるという事実である。『日本書紀』系譜の捏造はここまで遡って初めて見えてくる。
 
糠手姫のエピソードや名前も筑紫から出てくる采女の子・鏡王女と豊前息長氏の婚姻からの創作なのかも知れない。大海人皇子の妻で あった額田女王は、託宣により筑紫の行宮で中大兄皇子と婚姻の式をあげたと『日本書紀』は言う。なにゆえに筑紫か。真実は額田王=鏡王女は太宰大卒河内王の妻だったのかも知れない。
 
 
 

 

Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/