◆宇佐八幡宮(宇佐神宮)
 
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    宇佐八幡宮本殿 向かって左から一の御殿八幡神、中央がニの御殿比売神、右が三の御殿神功皇后
 
 
 
 
大分県北部、国東半島付け根に立つ御許山(標高647m)山麓に鎮座する。
本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とがあり、その周りに社殿が広がっている。
八幡宮の総本社であり古くから皇室からの崇敬を受けているほか、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。
境内は国の史跡に指定され、国宝の本殿のほか重要文化財の工芸品が所蔵されている。
参拝は一般と異なり、二拝拍手一拝を作法としている。
 
◆主祭神は以下の3柱。
 
 


 
◆創始伝承記録
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。
 
また社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある[1]。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)を祭神とするのはそのためと考えられる。
 
ほか、上記の鍛冶翁が「吾は韓国の域にはじめて八流の幡を天降ろして、日本の神となれり」と告げたとする説や、豊前国は渡来人の秦氏の勢力圏であり、秦氏の氏神が弥秦(いやはた)であったことから、平安時代から八幡(やはた)と呼ばれるようになったとする説がある[2]
 
また、宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現 金富神社)であるとする説がある。
(この部分訂正すべきである。歴史を追ってゆけば宇佐の前は中津市大貞にある薦(こも)八幡社(大貞神社)、その前は・・・と順を追って北部から宇佐へ遷宮されてきた歴史がある。矢幡八幡もその道程の途中にあって何番目かの八幡になる。元宇佐と言える社は正確にはなく、田川郡香春神社からの八幡神遷宮があったのは間違いがないがこれは合祀遷宮である。そもそも宇佐には八幡神はあとから遷座する。最初は比売神だけの神殿だったと記録にある。Kawakatu)
 
当社南に立つ御許山山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社があり、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうともいわれている。そこに、辛嶋氏[3]比売大神信仰を持ち込んだと考えられている。辛嶋氏は後に宇佐辛嶋郷に住み、辛嶋郷周辺に稲積六神社(いなずみろく-、稲積神社とも)、乙神社(おとめ-)、さらに酒井泉神社、郡瀬神社(ごうぜ-、昔は瀬社とも)と社殿を建築した。
崇峻天皇年間(588? - 592年?)に鷹居社(たかいしゃ)が建てられた。
 


 
 
境内・摂社解説
 
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画像右のほう「呉橋(くれはし)」がかかる方角が勅使道になり、天皇家からの天皇交代の挨拶をする使者を受け入れる正式な入り口だが、一般はこの橋を渡ることはできない。一般客は下側にある神橋を渡って一の鳥居から入らねばならない。つまりこの参道は本来の正門ではなかった可能性がある。
 
 
 
●黒男神社(くろお) 
住吉神・武内宿禰を祭る祠である。なぜ宿禰を「黒男」とするかはこのブログを読まれたい。彼が南方(隼人)出身だったことがわかる。
 
●初沢池(はつさわのいけ)
日本三沢(さんたく)のひとつ。京都の広沢、奈良の猿沢と並び称された。
 
●菱型池
この池に八幡神が顕現したとされる。清麻呂御神託事件で、画策した巫女・大神杜女(おおが・もりめ)が入水自殺した。この池の奥にご霊水が湧く井戸がある。
 
●天子南面
本殿は真南を向いている。正面に長い下りの階段がありそこに南大門がある。使用不可。南大門の方向の土地を馬騎(まき)という。まきとは大元山の別名で、馬の鞍のように頂上が二股であることから。
 
●大元山
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御許山(おもとやま)ともいう。「おもと」は宇佐神の大元という意味だが、頂上の大元神社には摂社スサノヲと本殿比売神が祭られ、背後に三つの巨岩「巴石」があるというが、そこはご禁則地で立ち入り禁止。鉄条網の柵がしてある。
 
●大尾山・和気神社
大尾神社には大神氏の祭る鉱物神?大尾神が、護皇神社には和気清麻呂が祭られる。大尾山から大元山への登山道が延びる。山を経て西馬騎へ出られる。
 
●若宮神社
応神天皇の皇子である仁徳を祭る。
 
●別宮頓宮
「とんづう」とは火事などの起きた場合のための本宮のミニチュア版である。宇佐神宮は中世の勢力争いで何度も焼かれた。そのときに呉橋奥にあった神宮寺である弥勒寺も消失した過去がある。
 
●呉橋
呉の人が造ったという伝承がある勅使専用の屋根のある珍しい橋。
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一般客は通常通行不可。
 
 
 
●北辰・春日社
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本宮本殿がある禁則地境内になぜか二つの小社がある。
ひとつは南向きに北極星=太一=天子である北辰社(画面奥)、今ひとつは東向きの藤原氏の神である春日社(画面左)。
 
北辰信仰は道教の思想。ちょうど出雲大社の北側にある素我社(スサノヲ)と同じ意味で、八幡神の祖霊を祭るのであろう。春日社は当時からの朝廷管理者である藤原氏の神霊管理を示すか?よその神社形式にはありえない境内摂社の配置である。
 
 
 
●八幡造り

前後に社が二基、縦ならびに置かれる。前が拝殿・奥が神殿となるか?屋根と屋根を金の樋がつないでいる。
ここの本殿は三柱であるので、三つの八幡造り神殿をよこに並べていることになり、三社セットで本宮と呼ぶ。
 
 
 


 
 
 
◆八幡神とは
「はちまんじん」と呼ぶようになったのは中世鎌倉時代からの漢風文化の影響だろう。ほんらい訓読みで「やはたのかみ」である。「やはた」「やわた」はその由来が不詳。船の幡とも、矢のように天から飛んできた八本の矢幡ともいう。
 
船、海上航海、いくさの神といわれるが、それも平安・鎌倉の武士の時代から。その本性は鍛冶神だと言われる。祭ったのは当初宇佐氏であろうが、欽明年間以前は一切不明。山自体が古墳とも。宇佐氏末裔到津(いとうづ)家が代々祭ってきた。ここの古来の神職は宇佐氏・辛島勝(からしま・かつ)氏、最後に中央から大神(おおが)氏がやってきて勢力争いもあった。だから八幡神というのは辛島氏らいわゆる渡来系鍛冶工人たちの神で秦氏系であり、宇佐比売神とは安曇族という船の民の大地母神、応神・神功皇后は記紀伝承に合わせた中央王家伝統の祖霊ではあるまいか。宇佐氏はだから安曇氏であろう。辛島氏は秦氏。大神氏は奈良の藤原氏が監視のために送り込んだ大三輪直系氏族と言われる。
 
 
◆宇佐と秦氏
渡来人秦氏が実際にはいつから日本に来ていたかはわからない。応神朝よりも早かった可能性は充分ある。
豊前国は『正倉院文書』にある豊前国戸籍で、秦姓が90%も占めていた。
その中心地は田川郡香春(かわら)、行橋市内陸部草場(中臣邑)一帯、上毛郡、中津市である。
 
秦氏に限らず日本海を渡ろうとするものは玄界灘の海人族の案内が必要で、それが安曇氏たちだったことは想像に難くない。宇佐市安心院は「あじむ」と読んでいるがもとは「あずみ・あじみ」だと松本清張はかつて生前書いている。神武東征では宇佐津彦・宇佐津比売が宇佐川上流で神武を迎えてランチをやったとあり、宇佐氏はおそらく安曇族であろう。そこへ豊前に大国家を形成していた秦氏が田川郡香春から銅鏡をたずさえて南下。宇佐氏と融合して八幡神は始まったようだ。それを6世紀の筑紫国造磐井が反乱して誅殺されたために、殺した側の中央政権(継体・欽明朝)が罪滅ぼしと、国家統一のしるしとして、今後反乱せぬように彼らの大王である応神を祭ったとも考えられる。神功皇后は息長氏という日本海交易の雄族出身であるから、天皇家へその比売が入内したのちに、ここ豊前地域が秦氏だけでなく息長氏の出発点と認識し、その神として応神を祭ったか?
 
 
 
◆国家の第二の宗廟
宇佐は伊勢神宮に並ぶ第二の国家の宗廟と書かれている。
つまり伊勢が天武に始まった天皇家の宗廟ならば、宇佐はその前にあった王家の宗廟とも受け取れる。
 
 
◆ニ礼四拍手
伊勢神宮内宮、出雲大社、鹿島神宮と宇佐八幡宮は四拍手する慣わしである。
国家神に限っての礼で、中国の天子には四礼に習ったか?あるいはほかに理由があるか?それは『秦氏が祭る神の国・その謎』で。
 
 

 
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