信仰(しんこう、英語 faith)とは、
神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。
人やものごとを信用・信頼すること。
証拠抜きで確信を持つこと[3]。またそれらを信じることを正当化する要因。
また比喩的な用法として、何らかの対象を絶対のものと信じて、疑わないこと[6]を指すこともある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E4%BB%B0
 

筆者が考える信仰の歴史と種類
1最古・・・大地と大自然の猛威を畏れるところから始まった大地母信仰
2次は・・・いとも簡単に死んでいく家族をなげき、遺族(特に子供)の生命の回帰、そして個人の永遠の命を希求する再生信仰(ヨミガエリ)
3次は・・・個人の不老不死が不可能と認識され、死者の魂魄が天に昇って祖霊と再会し交叉結合し、新たな霊魂となって次の世代の子供たちの誕生となって再生されるという祖霊信仰。付随して集団としての人類の存続=リーインカーネーション=一個の命は消えてしまうが、生命はつながって輪を形成し、結果、種は永遠に存続するという終わりなき連環信仰。
4最後に・・・人間の心の闇を救おうと、安寧のノウハウを教義とし、哲学として普遍的にした科学=宗教
 
 
 



バクテリアから人間まで、すべての生き物には共通する目的がある。
それは「種の存続と繁栄」である。
そのために子孫を残すのが目前の目的となる。セックスである。

これは同時に国家・集団の最大の目的でもある。
一族の存続がなくなればその集団(種)は当然滅びに向かう。これは自然の摂理である。
それゆえに古代では女(母)は神のごとく尊崇された。

生命を生み出すという女性だけに与えられた機能だけで、男性から見れば充分に女性は摩訶不思議な神だった。反面、神は魔物でもあった。実に不思議なことだが人間は正反対の観念を必ず聖なるものに与えてきた。それが魔、鬼の概念である。

二律背反する観念を与えることが、男性の子孫を生み出せないというカタストロフィ・ストレスを押さえ込む清涼剤となった。そのために不条理な矛盾行為であるが、男性は女性を差別するようになった。
 
密教では女性が子をはらむためのセックスを、究極の高みであると考え、リビドー(セックスによる高揚感の末の達成感)こそが憑依の末の止揚(哲学用語アウフヘーベン(独)=苦しみを幸福へ切り替えるような観念的逆転的上昇志向)であると考えていたふしがある。いわゆる原始信仰ではトリップ、憑依によって神がかりし、託宣したり、苦しみから逃れようとするいわゆるシャーマニズム行為が行われてきたわけだが、密教のような新しい教義宗教たちもこれを捨てず、応用したのである。
 
キリスト教は悪魔・魔女観念を神の子=神聖の裏側にある一面=ダークサイドの存在として作り上げた。ここには極めて政治色・経済色の強い宗教がキリスト教であるという如実な面が現れている。魔女の差別と断罪は生産=子作りをしない、子供生めないものを魔物とする発想で、つまり国家を豊かにするための敵であるとしたかったのである。相反する概念が女性に与えられた所以である。ローマ帝国がなぜキリスト教を国教としたかの理由は、彼ら自身がイエスを磔刑にした張本人だったために、イエスの祟りを畏れたところに始まる。つまりこれは日本の怨霊思想と大差がなかった。原始世界では世界中でそれが共通した信仰観念であった。しかし残ったのは日本と原始社会でのみである。
 
ローマは従って、突き動かされるようにキリスト教にはまりこんだ。そのためにほかの信仰のすべてを邪教と呼び、すべての地球人類をキリスト教徒にしようとする。古い民間信仰を持ち続けてきた北欧においては、顕著にそれを消し去ろうとし、悪魔が必需品となった。彼らの信仰心を悪魔の思想とすることで、政治的・経済的に圧迫したのである。これは宗教帝国主義だったとも言える。これによって経済的帝国主義が始まっていった。いわゆる侵略と圧迫による民間信仰と地域性の簒奪である。十字軍もアレクサンダー遠征も、開始の理由はここにある。宗教界ではこれを単に多神教から一神教への進化とするが、実は一神教による他者侵略にほかならない。
 
世界的に「なまはげ」のような自然の来訪神・客神・まれびと神による正月行事は根強く点在する。そういう地域には必ずキリスト教のイような国教・新興宗教からの圧迫と弾圧の痕跡が残っている。なんとなれば古い祭りそのものに悪魔とサンタが一緒に登場したりする場合もある。しかし古いまれびと神もちゃんと残されたのは、その地域の人々の国家への強い反抗が、ある意味国家に認められた、国家がある程度それを容認せねばいくさが終らなかったためである。日本の東北や南日本にそうした古い形の祭りと神装束が残存するのは、歴史上間違いのない抵抗の歴史があったからである。蝦夷や隼人の反乱がそれである。
抵抗の強い地域ほどそれは残る。東北や鹿児島が反骨の地域と言われる所以である。
 
時に、場所により、宗教は古来の信仰の征服者であり、別の信仰の押し付けであった。従って実は宗教は純然たる信仰と相容れない一面を持つ。自由の反対概念だったとも言える。それで先進地域ではやがて宗教と政治を分離していくようになる。これが政教分離である。
 
宗教が信仰から生まれ出たときから、そこには「信仰の鬼っ子」としてのおしつけがましい政治性・経済性が含まれていた。だから往古は「まつりごと」とは政治と信仰による人民のコントロールの道具となったのである。信仰を統一するということは、つまり自由な選択を奪い取り、民衆をひとつの価値観で縛り付ける呪縛となる。
 
近代的な宗教とはそうした中世的帝国主義的な思想から隔離された、本来の信仰を取り戻したものである必要があるだろう。イスラームも仏教もキリスト教もヒンドゥー教も、そうした先祖回帰の時代にさしかかったと言える。
 
 
 

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