◆四隅突出型墳丘墓と高句麗積石塚

内モンゴルウランバートル オラーン・オーシング遺跡に見られる「1号ヘレクスルKh-1」
 

「日本海沿岸の出雲や越を中心に、弥生時代から古墳時代にかけて見られる四隅突出(しぐうとっしゅつ)墳も、朝鮮半島をはじめとして、東アジア古墳文化の流れの中でとらえねばならない。このことは四隅突出墳が発見された当初から言われいたことでもあった。
 四隅突出墳の源流は高句麗の積石塚にある。」
小林道憲 『古代日本海文明交流圏 ユーラシアの文明変動の中で』 世界思想社 2006
 
小林の意見の底流にあるのは、NHKと森浩一が1994年に出版と番組化した『考古紀行 騎馬民族の道はるか―高句麗古墳がいま語るもの 』や、全浩天『前方後円墳の源流』未来社 1991などがある。
http://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E5%8F%A4%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E9%81%93%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%8B%E2%80%95%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%BE%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE-%E6%A3%AE-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/4140801492
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624111281
 
 

◆前方後円墳、前方後方墳の源流はスキタイ系クルガン墓にあり
 

内蒙古自治区和林格爾後漢墓

「奈良県桜井市纏向遺跡の勝山古墳、纒向石塚遺跡(弥生墳丘墓の意味だろう Kawa)、ホケノ山古墳、巻野内石塚遺跡(同じく)などは、三世紀初頭から中ごろにかけて築造されたと思われる日本最古の(プレ Kawa)前方後円墳であるが、これらの形式とで残は高句麗起源と考えられる」(小林)
「高句麗人は、現在の中国東北地方に住んでいた夫余族の分かれであり、もとは農耕も行っていた騎馬遊牧民族であった。高句麗系の積石塚の源流も、匈奴の営んだ積石塚を経て、北方ユーラシアのエニセイ川流域あたりのスキタイ系騎馬遊牧民族の墳墓に求められる。また前方後円型墳墓も、その源流は遠くユーラシアの草原の民に求めることができる。。例えば匈奴が営んだ紀元前後百年ほどにわたるノイン・ウラ古墳群には、前方後方型であるが、表面には石が敷かれた墳丘がある。さらに、それは、アルタイ地方から南ロシアにかけて見られるスキタイ系クルガンに、その源流を持つと思われる。」(同 小林)
 

ウランバートルの北方120km、前方後方形のノイン・ウラ24号墳
墓室が地下に位置する
 
これら森や小林の意見を画像入りで紹介しているサイトがいくつかある。
前方後円墳の起源 http://www.geocities.jp/taru638/page008.html
新井直樹のホームページhttp://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1209.htm
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/pic1197.htm
 
さらに源流を遡り、バルカン半島トラキア(トルコの前身、アナトリア地方)に求めるサイト
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/0400.html
参考ノイン・ウラ古墳の調査報告
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/.../1/jor021_1_90.pdf
 
 
 

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http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/04/img/04fig18s_a.gif
コプリンカ,第13墳墓 Koprinka,tumulus no.3

トラキアの墳墓
 
 

これまで筆者が考えてきた前方後円墳の源流は、日本の広瀬和雄を初めとする大和至上主義者たちの「前方後円墳国家」にあるような、大和中心的な、一律的な、古墳形式の大和の許可制とか、それに伴う神獣鏡の分配などといった、あたかも弥生時代末期から大和が全国を席巻していたかのような大和至上主義に始まる了見の狭い見方ではなく、前方後円墳の発生も、国家の発生も、東アジア及び西アジアの動向の影響を受けながら、全地球的な、世界史的な人間行動学にみあう、動きのなかのひとつの移動とみて、九州には九州独自の古墳の始まり、出雲にも出雲の始まり、丹後や北陸にはまた独自の始まりがあり、大和もその北陸、丹後、若狭の高句麗型積石古墳の影響を受けた日本海文化の終着点の一つに過ぎないことを認識せねばならないのである。
 
神獣鏡も古墳形式も、決して大和が強大で配布・許容したのではなく、それはむしろ大和が地域の特産物である翡翠や輝石などをほしいがために、物々交換の道具として発明された渡来技術だったのであり、つまり大和には地方が持っている名品に等しいだけの価値ある天然特産物も、国産技術もなかった・・・だから輸入された海外技術によるステータス作りとして神獣鏡を作り始めたのである。プアだったから貧しいなりの創意工夫であった。
 
古墳の様式である横穴式石室の派生が半島経由でまず九州ではじまり、その伝播コースが瀬戸内航路を選んできたのは、途中にある吉備王国の中継文化という面が存在する。それまでの大和の前方後円墳の石室は密閉型の竪穴式であり、これは単なる穴を掘ってそこに棺をはめ込んだだけの狭小空間であって、神話にあるような黄泉の胎内巡りを空想させる空間とはとても言えない。玄室や玄道や開閉式入り口を持った九州式の横穴式石室だからこそ考え付く神話であると言える。ということはそれが大和で一般的になった6世紀を、イザナミ神話は遡れないことの証明にもなるだろう。
 
この横穴式石室がいつ九州にやってきたかというと、それは福岡県鋤崎古墳・老司古墳、佐賀県谷口古墳などの4世紀後半である。この様式を遡れば先のスキタイ系クルガン墓やトラキアの前方後円型墳墓にたどり着くのだろうか?どうやら画で見る限りそうではなさそうである。匈奴のノイン・ウラ古墳の石室は墳丘の地下深くに最初に掘り下げられた地下にある。これは大和の墳頂に竪穴をうがって棺をはめ込むやり方ともまた違っている。
匈奴やスキタイの様式が、高句麗を経て海を渡る間に、大和の竪穴式石室に変化したとするならば、記紀の言う出雲の土師氏たちの四隅突出が持っていた墳頂に穴を掘る高句麗式の方形墓様式の影響があったのかも知れない。ノイン・ウラで出土している埋蔵物の装飾品などは高句麗の装飾に共通する、東北アジア的なものが多いようだ。
 
「最後に、 著者は 「鈴記』 においてノイン ・ ウラ古墳群の出土品の. 特色を、 つぎのように結論する。 川 出土の遺品は、 中國の 漢代とくに前漢の中期から王奏時代に. わたる所産とみとめられるものが大部分を 占める」
 
「さらに墓室内に安置された木棺についても、 樂浪古墳の木棺との同類性を指摘したのち、 ノイン - ウラ古墳の構造を要約して、 つぎのようにいう。 ,墓室は基本的には、 中國の戦國時代以來の木室境や樂浪郡の漢代木室境とほぼおなじ形式で、 地下ふかくうがたれた坑内に木材で墓室を構築し、 前方には出入のための坑道をっくり、 坑のうえを封土でおおうたものである。 ただし封土が載頭方錐状で、 前方後方墳的外形を呈し、 その封土の外面が礫石でおおわれている. また室内の装飾が壁吉でなく、 あたかもいまの蒙古人のテントの内部のように、下に敷物をしき、 周壁を布帛で飾っ ているなどは、 中國のそれと相違する点であると。封土の外面が礫石でおおわれていたり、 御室内の装飾が蒙古包の内部を模していることなどは、 さきに筆者 (田村) らの調査した契丹の帝王陵である慶陵とも相似していることをおもいだす。 著者も注意しているように、 これがアルタイやパイカル州の遺跡におけるものと同似だとすれば、 基本的には中國の木室墳の形式によりながら権、 その半面には北アジ ア遊牧民の墳墓の様式をもとりいれていたものと考えられるであろう。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=1MvERcq8gaoJ&p=%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%93%81&u=repository.kulib.kyoto-u.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F2433%2F152599%2F1%2Fjor021_1_90.pdf#search='%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%93%81'
 
 
つまり匈奴の墳墓は西のスキタイよりも、より中国漢の様式や埋蔵品に近い嗜好性をみせていて、その始まりが西のアナトリアやカスピ海沿岸のトルキスタンやスキタイに始まったとしても、騎馬民族が東へ移動する間に、中国や東アジア文化の影響を受けて微妙に変形した、それが高句麗でさらに半島的になって、日本海をダイレクトに渡って福井・富山湾~琵琶湖~大和に入ったことになるのである。それは同時期に九州に入ってきた南朝鮮的な横穴式石室ではなかったということである。
 
ということは日本の竪穴式が持っている天に近いところに祖霊を置く祭祀様式、埋葬様式は高句麗系であり、本来は漢の地下埋葬だったことがわかる。そうなったのはモンゴル草原から高句麗に入るときに夫余族の考え方が、同じ遊牧民としての匈奴やスキタイに近いために先祖がえりしたとも考えられる。
 
 
 
つまりこれを列島にやってくる文化全体として捉えれば、九州と近畿では最初からやってくるルートも持ってきた人種も違うことになる。大和の最新技術は最初から日本海経由の、つまりあの継体大王や息長氏の得意なコースでやってくいる。卑弥呼の時代からそでにそうである。そして九州のようには、直接、漢と顔を合わせない、北魏や燕や高句麗を仲介とするつきあいが続いたということである。三世紀後半になって、ようやく公孫氏朝鮮が倒れることで、畿内地方政権は漢のサロンに突如として登場し、耳目を集め、あたかも公孫氏の南方系鬼道と神獣鏡のまじないをまねしたかのような要求で、魏王をとまどわせ、面白がらせることで、かえって、運の良いことに極東で最も有名な「変わり者国家」として世界の「花モノ」「興味深い時代遅れな」「前世紀の遺物国家」として興味本位に語られ始めることとなった。それはまさに中国神話の蓬莱扶桑の世界に見えたのだった。道化者邪馬台国。朝貢外交とはこういうものである。弱いものは道化を演じる。それは太宰治が書いた『人間失格』を彷彿とさせる。
 
 
 

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