さて、メガネの修理のために長い休暇になってしまったことをお詫びする。
書きたいことが溜まってしまい、古田武彦の多元的古代史分析はすぐに取り掛かれない状況。
まずはひとつふたつ記事をあげてからぼちぼちやっていきたいと思う。
 
 
 

 
 
 
まず諸古代史好事家ならよくご存知の岡山県楯築墳丘墓亀型石(弧帯文石・こたいもんせき)の動画をさきほど限定公開でアップしておいたわけだが、友だち公開にしてある。ヤフーIDを持っていて、なおかつこのブログのファンになっていない人には見えないようにした。それはこの動画がかつてテレビ番組で放映されたもので著作権に関わるからである。動画サイトにも限定公開に設定してあるから、この記事の動画編を見られない人にはアクセスできないことになると思う。(もしどちらもが見える人がいたらご連絡願いたい。すぐに動画を削除する)
だからというわけではないが、古代史に興味を持つものは、この動画は是非にも見て置いていただきたい。友だちになればいいだけである。
左側プロフィール画像の真下にある友だちボタンからどうぞ。
 
 
 
ここでは動画を見られない人のために静止画像を一部だけ貼り付けるにとどめておく。
 
a76b7489.jpg

 
楯築墳丘墓は卑弥呼の時代に始まったと畿内学派が言うところの前方後円墳の時代(いわゆるこれが古墳時代というものの区分限定のやり方なのである)よりも少し早い時期の2世紀後半に岡山県吉備地方で造られた墳墓である。
 
その形状は古墳時代の双方墳のさきがけとされ、ここで出土した特殊器台(とくしゅきだい)という円筒型埴輪の形状やそれに伴う祖霊祭祀の様式はやがて3世紀の纒向祭祀の中心的役割を果たしたと畿内学派ですら認めているのである。
 
ed23bf6d.jpg

 
つまり吉備は「纒向にあったとどうしても畿内学派が思い込みたい」邪馬台国のプレ王権だったと、畿内説学派でさえ認めているということになる。
 
楯築の遺物が大事なのは、特殊器台からも、この弧帯文石からも出てくる特徴的な絵柄である「弧文こもん」という、曲線の帯模様がからまりあった装飾であることは言うまでもない。この模様はこれまでこのブログが幾度となく、機会があるたびに記事にしてきた直弧文の前にある呪の模様なのであり、その中間点に纒向出土の弧文円板が存在する、日本オリジナルの再生祈願の模様なのである。
 
だから吉備の弧帯文、纒向の弧文、古墳時代最盛期の巨大古墳時代に全国に広がった直弧文こそが邪馬台国の祭祀様式が畿内に移動した痕跡になるということになるのである。
 
7485a2ca.jpg

 
楯築にはもともと伝世時期不明だった亀石というご神体が祭られており、墳丘墓頂上にあとから立てられた神社に鎮座していた。
 
しかしそのいわれはまったく不明で、巨大な渦巻きに取り巻かれたいくつかの目が呪模様だろうとは言われてきた。しかしどういう祭祀を行ってきたかがまったくわからなかったのである。
ところがその後出土したばらばらの石塊群が、どうも同じ弧帯文が描かれており、これをつなぎ合わせてみるとご神体の九分の一サイズのまった同じ形、同じ石材の亀石になることがわかったのである。
 
分析するとこのミニチュアレプリカは、本来はどこに置かれたものかは不明なれど、全面を焼却されることでばらばらになったらしいこともわかった。
 
まったく同じものをミニチュアでレプリカすること自体、それだけでも大変なことである。素材は石なのだからわざわざ同じ形に削ったのである。しかも全体にまったく同じ配置で弧帯文を刻んだ。なみなみならぬ思い入れがさせたことであろう。
 
この石はいったい何に使われたのか?
それは当ブログをご愛読のみなさまならすぐにわかることだろう。
再生の儀式である。
弧文・弧帯文は永遠の生命、祖霊回帰の絵柄なのである。
弧帯文石の一突端はそこだけ円形に突き出しており、そこに「神の顔」が浮き彫りにされている。ぼんやりとしていて明確ではないのは、それが共有される神の顔だからなのであり、はっきりとした顔立ちにするとそこにはどこかで見た誰かの顔に似てきてしまうからのほかなるまい。
 
で、レプリカはご神体=墳丘墓被葬者の祖霊の身代わり、よりしろ、かたしろなのである。
つまりレプリカは実用品で、その場で焼かれる=死。
そしてばらばらになるが、つなぎ合わせれば再びもとの形に戻るのだ。
ジグソーパズルだからそれは永遠を表すことになる。
 
あとで記事にするがオーストラリアアボリジニたちも、ようく似た絵柄を描いたご神体を持ち歩いている。
それをクーラモンと呼ぶが、狩りに出るときにお守りとして持っている石棒で、その絵柄は蛇の象形化した渦巻きや曲線である。往古は蛇そのものだった。
 
c5e59c24.jpg

 
縄文の土偶は同じく壊される運命にあったが、しかし楯築のような身代わりは造られなかった。こわされたらそれまでである。しかし焼くこと、ばらばらになることという意味では土偶も、一旦生命を断ち切られるが、子孫の誕生として復活することを期待することで同じである。
 
楯築の弧帯文石も亀卜のように、焼いて壊れる石を選んで作られそしてその割れ方に吉凶を見たのかも知れない。こうした祭祀観念は、特殊器台に乗せられたと思われる特殊壷の中身をも想像させる。当然、壷の中には”聖水”が入れられ、祭祀の途中でその水はこぼされたことだろう。普通なら「覆水盆に還らず」のことわざどおり、こぼれた水が壷に戻ることはありえない。ところが弧帯文や弧文や直弧文の渦巻きはその不可能が起こるという絵柄になっている。流水文が繰り返し、弧を描き、メビウスの輪を描いている。サンスクリットのウロボロスの蛇と同じ観念である。
 
このように永遠のリーインカーネーションこそが人類にとって最も重要な営み=神の与えられた最重要課題であることを世界中の古代人は知っていたのである。現代人だけがそれを忘れ去った。だから滅びが近づくのだ。
イエスの復活も単なる再生、全人類の生の輪環を言い表す言葉に過ぎないのに、おろかな宗教家たちは復活が本当に起こると信じてきた。今でもバチカンの枢機卿たちでさえ信じている。そのようなささいな、たわいない奇跡にすがって人は生きている。神の言う永遠とはそんな小さな奇跡などではない。それは迷信と盲信と無知の所産でしかない。小さく短くはかない命しかなかった時代の人間のほうが、はるかに達観してり。自分たちの命は切れた帯のように短いもの(直弧文)、それをつないでいくことこそが、実は本当の永遠への近道なのだ。神のご意思なのだと割り切っていたと見て取れるのである。現代人の望む不老長寿など、ブッダに言わせて見ても小乗である。
 
 
本当の喜びとは実際に長生きするすることなのではない。
なぜなら長生きすればするほど、人は老いさらばえた老骨を痛め、きしむ体に苦しむだけだからだ。不老長寿は真の幸福などではない、ひとりひとりは死んで、それをひくついでつないでいくことこそが永遠なのだと、古代人は世界中の遺物に記録し伝えようとしてきた。しかるのわれわれは、進化するほどに空の星を手にしたいと高望みしはじめ、医者も警察も司法も、老人の孤独死さえ不幸な事件、異形の死としたがっている。本末転倒である。本当の自由と寿命に素直な生き方が、もはや現代先進社会には許されない贅沢となってしまっているのだろう。
 
 
91943eaa.jpg

 
 

Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/