テレビ番組があったので、今月初に啓上した記事を、改めて年表を整理してあげておく。
 
 
 
福岡県糸島半島の
元岡古墳群G6号出土の金象嵌紀年鉄剣の、
 
授与された人物は、554年に百済王余昌を救った筑紫国造・鞍橋君(くらじのきみ)

授与したのは百済王余昌

鉄剣を伝精された古墳の被葬者は、従って筑紫国造・鞍橋君の子孫であろう
 
大和朝廷下賜説でもなく、朝鮮国家が大和朝廷を通じて下賜したのでもない。

百済王が命を救われたことへの礼として、直接贈呈したのであろう。
 
継体大王~磐井の乱を経て、二朝並立らしき微妙な政権交代時期である。
日本史、天皇史にとって最も重要な河内王朝から飛鳥王権へのつながりがあったかどうかの大事な資料。
さらに、九州の筑紫国造家が、磐井の乱のあと、どう変化していくか。
百済の滅亡(白村江敗北)直前、磐井は新羅と結ぼうとしたと『日本書紀』は作るのだが、新羅とだけでなく百済とも高句麗とも、広く深くつながっていたはずである。大和王権よりも筑紫王権の歴史のほうが1世紀から続く古いものだったからだ。
 
だがこの頃、筑紫は大和から物部氏が支配者として入っており、筑紫国造がそれまでの磐井一族であったかどうか疑わしくなる。

『日本書紀』は筑紫兵士を大和朝廷が派遣したと作ってもいる。
この作り方が造作かどうかという問題も含んでいる。
 
 

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552   ○百済国から高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり
552年(欽明天皇13年)百済聖(明)王の使者仏像と経論数巻献じ上表して仏教の功徳をたたえる(仏教公伝)
                             蘇我氏と物部氏の死闘開始(蘇我稲目対物部尾輿)
553   欽明14年百済国から、高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり 良い錦2匹毛氈1領斧300口捕虜の男2女5を奉る
 
554   欽明15年5月内臣、軍船を率いて百済に向かう
    百済の聖明王、新羅に殺される
    弓の名人に筑紫国造がいるー尊名として鞍橋君と附ける
    百済(くだら)(朝鮮)王子余昌が新羅(しらぎ)(朝鮮)にきずいた山城久陀牟羅塞(くだむらのそこ)(慶尚北道
        北西部)が新羅軍包囲された際,筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)は弓矢で奮戦し余昌を救出。このとき
        矢が鞍の前後の橋(くらぼね)を射とおすほどの力があったため,余昌から鞍橋君(くらじの・きみ)
        の名をあたえられたという。(『日本書紀』)
 
555 16 王子余昌、百済王の後継者に、

556   欽明17年1月、筑紫国造兵士1000名を送り百済を救援する 

557   欽明18年3月、百済の王子余昌、王位に就く(威徳王) 百済の王子余昌、王位に就く(威徳王)
 
570年3月22日(欽明32年3月1日)蘇我稲目死去(百済が?元岡古墳被葬者の死に対して金象嵌太刀製造した?)
 
 
 
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百済王余昌はその後、聖徳太子と蘇我馬子の時代、つまり『日本書紀』が言う推古女帝時代、日本最初の仏教寺院建立にも関わることとなる。王の署名入り舎利容器が元興寺五重塔地下基礎部から出ている。