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伝統的ケルト文化の直弧文的な弧帯文様
 
 
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日本の弥生時代~古墳時代に隆盛した直弧文
 
 
 
●糸島にはなぜ装飾古墳が無いのか?
 氏の答えは装飾古墳を「大和朝廷から睨まれる風習」とし「知らない、技術が無いのではなく、知っていて、あえて政治的判断でそうした風習を取らなかった」
伊都国歴史博物館での講演『装飾古墳を考える -伊都国では何故壁画は描かれなかったのか-』石山 勲 筑紫野市歴史博物館より
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51307893.html#more
 
糸島半島の元岡古墳群から銘文いり鉄剣が出たことと、糸島半島に装飾古墳がないことは非常に密接している。それは直弧文ともリンクする。すなわち朝廷が派遣してきた官僚氏族の墳墓だからである。Kawa&Wara
 

●火炎土器はケルトと共通の渦巻き文様
「文様」と「模様」は異なる。世界の文様の中で「類似的な文様は世界に多い、それが渦巻き」「火炎土器の模様とケルトの文様に高い共通性を見た」
「火炎土器はユーロアジア的文様共通性の中心に大きく立っている」
 日本人の特性として他国の文化を「受容する精神性」の中にありながら「受け入れた後にそれを自分のものとして昇華させ、必然性の基で開花したのが火炎土器」
 「美しいものには地水火風の四要素とこれを かき混ぜる 五番目の要素」が必要で、魅力的なデザインは「完成していない」「止まっていてもうごめいている」
以上「九州国立博物館火炎土器講演」多摩美大芸術人類学 鶴岡真弓より
http://www2.tamabi.ac.jp/cgi-bin/iaa/category.php?k=%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E7%9C%9F%E5%BC%93
以上二点の示唆教授先
蕨手「装飾古墳今昔紀行」及び当掲示板への書き込みから編集
http://blog.livedoor.jp/warabite/
 
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火炎土器の渦巻き
 
 
 

その他、古墳研究に欠かせない門外漢からの、読んでおくべき貴重な指摘
岡本太郎1952年雑誌『みずゑ』所収「四次元との対話――縄文土器論」
中沢新一『狩猟と編み籠  対称性人類学II』講談社<芸術人類学叢書1> 2008 
      『アースダイバー』講談社 2005 ※天皇・東京論
      『野生の科学』講談社 2012 
      『精霊の王』講談社 2003
      『愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュ〈III〉』講談社選書メチエ 2003 
      『神の発明 カイエ・ソバージュ〈IV〉』講談社選書メチエ 2003 
      『対称性人類学 カイエ・ソバージュ〈V〉』講談社選書メチエ 2004 
      
大和岩雄『十字架と渦巻 象徴としての生と死 』白水社 1995
     『魔女はなぜ空を飛ぶか』 大和書房 1995
    『魔女はなぜ人を喰うか』 大和書房 1996
グラハム・ハンコック『神々の指紋』
 
 

ニューグレンジの渦巻
それは神々の指紋である。
永遠がそこに見える。
 
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想像力貧困な学者では到底思いつけないアイデアの数々。
ようやく時代が追いついて来たか、の思いが募る。
 
 
「日本人は世界の大陸人と比して、概して情緒的民族である。
文学的と言い換えてもいいほど主観に左右される民族である。
その傾向は科学や物理学や、政治や経済・流通、数学という比較的ドライな学問にまで及んでしまうことがあり、よその研究者専門家の頭をひねらせる。
 
考古学で言うならば、年代決定の問題になると、ドライな理系人間のはずの研究者たちまでもが、伝統的文献史学の情緒的・文学的・権威主義の前に停滞を余儀なくされていたりする。そればかりか、当の考古学者の中に出さえ、過去の長年にわたってきた土器編年にこびりつき、すでに西欧世界では認知されつくしている炭素年代法を疑い、いちゃもんをつけようとし、あまつさえ無視した挙句、ようやくその正鵠さに気付かされた今になってもまだ「縄文時代はいつからはじまるのか?」などと、あいかわらずの古臭い価値観からの論考ばかりの著書を出し、その中にC14や年縞を扱う論考は、わずかひとりかふたりしか挿入しない。
 
あたかも、年代決定をもてあそび、推理ごっこを楽しんでいるかのごとき、ていたらくなのである。いつまでそういう繰言を言い、古代史ファンを小ばかにするつもりなのだろうと、さすがに腹立たしくなることがある。
決められないということは、つまりダメなのだ。

それはちょうど憲法改正でいつまもいつまでも結論が出せない政治家に等しい。
決められないのなら学者などやめてしまえばよろしかろうし、これまたファンのほうも、決まらなくていいのだ、いつまでも読み続けていたいファンタジーでいいのだと、それを是認するような態度を見せる有様である。
 
例えば戦争はいつでも「受け手立つ」という姿勢を持つのは、西欧型民主主義・資本主義の平和理念であるのに、日本人はこれまでまったくそういう論議すらしてこなかった。その結果が尖閣や竹島問題で突如として登場し、「これは青天の霹靂」とばかりにわいわいがやがや始める。ところがこれまで充分な公開された論争が表面に出なかったものだから、国民総じて無知蒙昧論しか出てこない。
 
数学のように明確な答えを出せるものはこれまで総じて「いやしき行為・忌むべき行い」なのであった。技術や科学が長い間、被差別者のする行為だという東洋的儒教的偏見にみちた観念をベースに、この国が形骸だけを西欧の物真似してきたためである。
 
これまで営々と積み上げてきた過去の土器編年は、確かに世界水準をはるかに凌駕してすばらしいものであった。そして担当者たちが言うように、その脈々と積み上げてきたもの、涙ぐましい、土にまみれた実績は、たたきあげの栄光であろう。それをわずか数日の遠心分離機と炭素分析ごときで決められてたまるかという気持ちはわかる。しかしながら、そんな感慨などは、中国や朝鮮によってとってかわられようとしている家電産業や精密機器メーカーの制服組の繰言に等しい。次元が低すぎてあっけにとられてしまうのである。
頭の切り替えが遅くなったとき、研究者や現場はいさぎよくあとを托して身を引くべきである。
いったい科学は前に進みたいのか、停滞をもてあそびたいのか、ときどき気が遠くなる。

それはもう、となりのじいさまを見て思うこととまったく瓜二つなので、ますますうなだれそうに鳴るのである。 」
文学と科学の狭間で 投稿者:Kawakatu  投稿日:2013年 2月12日
 


殺伐とした、貴重な、積み上げてきた編年資料にこびりつくことが、重要なこととは思わない。科学の新たな資料を否定し、見下す態度は改めるべきなのだ。それではかつての文献学者となんら変わらないではないか。考古学よどこへ行くのか。
ちょっとはファンタジー小説でも読んで、頭のタガを緩めたらどうだろう。上記紹介した研究者たちのように。
数値の無味乾燥な世界からはみだせない研究者は世間から受け入れられない。民間研究者やファンのほうがよほどラディカルな視点を持っている。
故・大滝秀治「おまえたちの話はつまらん!」
 
日本の学者はどうしてこうも想像力が欠如してしまうのか?
それは伝統的に権威主義と門徒制度が後輩をしばりつけてきたからである。
それは暗黙の言霊だったといえる。
 

参照当ブログ記事直弧文・弧文・弧帯文・組帯文など 2009年5月4日http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49495749.html
 
 
 

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