それは3世紀までは非常に簡単である。
ここだ。
 
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つまり玄界灘と対馬海峡をはさんだ両岸地帯である。
 
 
倭、倭人ないしは倭国という表記を中国が使うのは、文字記録では倭人字磚(わじんせん)の西暦180年代がある。歴史書では西暦150年あたりだとされる。志賀島金印の「漢委奴国王」の「委」を倭だという説があったが、「委奴」という言葉には「遠隔地から朝貢してきた」という意味合いがある・ただし読み方は「漢が委ねた奴国王」とも。つまり金印刻印には「倭」という文字はないと考えたほうがいいだろう。だから最古の倭人表記は180年だと筆者は考える。文献上は『漢書』地理史(2世紀)からでよかろう。
 
倭国には広義と狭義の倭国があって、時代によって認識の違いがある。前者は広域に倭人が住んでいた中国海南島周辺から日本まで含めた地域。後者はその倭人が作った国が朝貢してきたので『漢書』は便宜的に倭とした。
3世紀の『三国志』魏志でもまだ倭国という表記はない。
 
日本では「倭」は「やまと」と呼び、その「ヤマト」地方が倭人の国家であったかどうか知らない。大和地方の「倭」とはあくまでも文字だけもらって「やまと」地方のみを表した国名で、その後「大倭」となって「大和」となり、やがて天武天皇時代に「日本」が国名になる。それでも読み方はまだ「やまと」である。
 
2世紀以前の倭とは「倭人が住んでいる海岸部」すべてである。
 
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5世紀くらいからは倭国。倭国の考えていた範囲に変化する。
6世紀、磐井の乱以後になると筑紫全域がやまとの領域に飲み込まれる。
しかしまだ筑紫はゆるやかな独立性をたもとうとしている。
これが天武天皇が把握できた範囲であり、日本と表記になっていく。
10世紀になると東北が、江戸時代になってようやく北海道と北方領土まで意識され始める。
琉球は11世紀前後か?
 
しかし、倭人つまり南の縄文海人族の意識の中では、列島海岸線と海は、行ったところすべてが「倭人がいる場所」だった。国に対する意識が、国家と棲家ではまるで違うのである。
 
 
さて、箸墓(箸中山古墳)の専門家への公開が始まった。西殿塚古墳と同時公開だ。
纒向にいち早く入った人々も、前の記事に書いたような南北からの縄文系だった可能性の方が大きい。古墳時代の倭五王やその後の大王、天皇もまた、そうである可能性があると誰もなかなか気がついていないようだ。
つまり倭人という中国の認識から言えば、それは海人族だったのではないか?
弥生人が王になったのならば、なぜ縄文からの文化や言語は南方中国風にならなかったか?
それは江南の長江文化人の血脈が倭人に近かったからではないのか。
北方系遺伝子が今の日本人に多い理由を、弥生人が来からだという定説は、ちょっとおかしくないか?
東北縄文人はまさにバイカル湖経由の北方系新モンゴロイドと、南方系古モンゴロイドの同居である。
弥生人種の渡来した数量は以外に少ないのではないか。
来たのは鉄や稲作の文化ではあっても、人はあまり来ていないんじゃないのか?