これまでの化石人骨の時代別出土数で最も多いのは、縄文時代の数1000体である。
最近でも東京のど真ん中(新宿区)で、縄文人11遺骨が見つかったことは耳目に新しい。
この場所は現在は東京都の内陸になっており、Y字型になった河川そばのいわゆるY字型アースダイバー地点に位置するが、縄文海進時代には武蔵野台地が海岸に突出する形状の、V字型の岬でもあった。

武蔵野台地は関東山地の関東ローム層の流出で堆積した台地であるが、その上にあとから黒土がかぶさっていて、縄文時代の遺跡は、だいたい常にローム層から出てくる。海岸沿いだったので、当然貝塚遺跡で人骨が見つかりやすい。貝塚は貝殻のカルシウムであふれているため、そこにまぎれた人骨の残存率が最も高くなったわけである。
 
これが弥生時代から古墳時代へと下ると、河川工事が可能になって人は次第に平地に住むようになり、勢い遺骨残存率は低くなる。

ちゃんとした棺桶に収まった時代だからもっと残るはずだと思うけれど、それは首魁に限られた埋葬なので、一般平民の遺骨などは大きな穴にぽいすて状態であったから、どんどん酸化する。木棺や石棺におさめても酸化・腐食・盗掘によって骨は消えてしまう。
 
貝塚や水中などの特殊な保存状態でないと、結局、江戸時代の埋葬墓地であっても遺骨が出ることが減ってしまうのである。
 
その縄文人の歯型の特徴は「毛抜き型」(歯科医療ではバッド・ジョイントと否定的呼び方をする)である。
つまり上下の歯列が、ぴったりと合う歯形である。
 
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あとの時代になると、食品が柔らかくなって、歯形はハサミ型とかオーバージョイントという、上の前歯が下の前歯に当たらないような構造になる。鈴木尚はこの移行はだいたい鎌倉時代を契機として爆発的に起きるとしている。
 
毛抜き型歯列を持つのはオーストラリアのアボリジニ、アフリカのサン(ブッシュマン)、イヌイット(エスキモー)など、原始生活を今も続ける民族に共通した特徴的歯列である。

上下の歯が前で合致するということは、つまり口部分の突出を意味することになる。極端に言えば類人猿がこれである。ということは、現代人でこうした特長を持つ人は、古い頑丈な歯列特性が残存している人、言い換えると今でも食生活が健全で、あごが丈夫な人と言えるかもしれない。筆者がまだ幼かった頃の日本人には、こういう大人がけっこう目に付くほど存在したが、現在はあまり目にしなくなった。この顔つきと蟹股、体は小さいのに手足の割合が長い人ならば、まずは山林生活が続いた山の民や、海岸生活の長い海人族だと言って良いだろう(要検証)。
つまり縄文人が東北と南九州に別々に存在したことと、これは合致するのである。
 
 
いずれにせよ従来の縄文人の復元図はやや書き直しが必要なのである。もっと口をとがらせたほうがいい。今の関東型よりも、もう少しだけ原人に近寄るだろう。
 

                          もちろんここまで極端ではない
 
 
 
 

ところが南九州では縄文後期に、二度の火山爆発によって降ってきたATなどの火山灰で壊滅状態となり、突如としてそのアカホヤ台地から消えてしまう。ではその後、南九州海人系(琉球人に似る人々)の人々はどこへ行ったか?
 
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縄文時代後期から晩期にかけて、陸稲稲作の北上した道は、主として日本海ルートである。太平洋ルートは伊勢湾までで一旦ストップしていることは考古学的にプラントオパールが証明している(木下正史2011)。しかし日本海ルートでは出雲地方から能登半島、越前海岸、新潟、秋田、青森、苫小牧まで、稲作が一気に北上した。その時間差はわずかに100年ばかり。しかし関東地方はかなり遅れているので、最後に稲作が到達したと見られる。日本海をぐるりとまわっていくのであろう。だから九州の次に陸稲稲作が始まるのは、なんと北端の青森だった。

(例外的に岡山県から最古のプ縄文プラントオパールが多く出るのは、おそらく出雲から日本海縦断で半島のコメだけが輸入された可能性がある。出雲・吉備が稲作に適した土壌と気候(特に弥生ジャポニカには)だったこともあるが。)
 
この陸稲稲作ルートの前に、もっと古い貝の道があったので、この直通ルートはすでに縄文後期までに既成の高速流通道路だったと言える。すでに移住する前から南九州縄文人には既知の良い土地として青森の三内丸山や亀ヶ岡の存在がインプットされていたと考えても差し支えあるまい。
 
鹿児島県の上野原などの消えた縄文人が避難した先は、まず青森が 中心だっただろう。次に秋田の八郎潟や新潟の潟湖、富山湾などがあげられる。不思議な一致だが、そういう要所には木造高層建造物が残されている。
 
ということは、縄文晩期には彼らとのハイブリッド縄文人が、東北・北海道地方には生まれていったはずである。
このときに南北の別々の遺伝子と文化が渾然一体となって日本語・日本文化の基層を形成したのであると考えるのが自然なのである。頭の中に当時の日本列島の姿を思い描けば、東北こそが中心地帯だったことになる。そしてさらに不思議なことは、弥生渡来人がやってきても、その基層の縄文古文化の多くが、日本全体の日本人的風習として残存したことである。
 
言葉では、江南言葉が来ても、朝鮮語がもたらされても、影響を与えたのは単語のボキャブラリーや膠着言語や居住空間や埋葬風習や魚介海藻中心の食生活といった縄文古来の特性にではなくて、イントネーションだけだったことなのである。
 
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参考斬新理論・佐藤洋一郎
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
中国の慶州で発見された2000年前の稲のモミ。空気が遮断された状態にあったため、そのままの状態で見付かった(写真上)。河姆渡遺跡から出土した7000年前の土器。猪のような動物か描かれている(写真下)
(写真提供:佐藤洋一郎氏) 本文参照

●朝鮮半島にはない水稲籾発見
 

 

●卑弥呼は縄文人?
佐藤 余談になりますが、私は卑弥呼も弥生人ではなく縄文人だったのではないかと思っているんです。というのも、まず入れ墨をしていた、そして海に潜って魚を獲っていたというのが弥生人らしくないですよね。さらに、生姜やみょうがなどのハーブ類を食べなかったというのも気になります。生姜やみょうがというのは、中国大陸から伝来したものですから、渡来してきた弥生人が食べないはずがないんです。

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日本人の文化と言語の基層には南北縄文時代人の特性が山ほど残存している。
弥生人はその上に乗っかって、それを利用し、便乗し、ずるがしこくシビリアンコントロールした、いわば柔らかな侵略者なのであろう。
 
 

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