金象嵌の大刀:福岡・西区の元岡古墳群から出土、博多区・市埋蔵文化財センターで公開 1400年前の輝きが魅了 /福岡   
毎日新聞 2月3日(日)14時10分配信
 
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◆元岡古墳出土庚寅年金象嵌銘文入り太刀の意義 
 ①数少ない文字象嵌を施していること、
 ②さらに数少ない紀年銘を入れていること、
 ③さらに唯一鍛錬した日付まで入れていること、
 ④この日付より製造年(西暦570年)がほぼ特定できること、
 ⑤これにより日本書紀の「日本は553年に百済に暦博士の派遣を要請、翌年、暦博士が来日した」という記述が裏付けられること
 ⑥この時もたらされた暦が、中国・南北朝時代の宋で作られた「元嘉(げんか)暦」と確認できること
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/cat_10003841.html
 
 
この発掘に関する当ブログ過去記事http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54153520.html
今回、この太刀が公開されたので、少し被葬者を空想してみよう。
 

◆太刀紀年にある西暦570年前後の事件
479年雄略天皇死去。後継者争いおこる。
507年大伴金村らが越前より男大述王を迎え、継体天皇として即位させる。
509年欽明生まれる
512年大伴金村百済に任那4県を割譲した問題が再燃して失脚する。
513年五経博士来日して儒教を伝える。
527年筑紫国造磐井乱。翌年鎮圧
    その後河内物部氏筑紫に入り支配体制の開始?
528年北九州に糟屋(かすや) 屯倉を置く※1
531年継体及びその皇太子?ともに崩御。
       安閑即位。武蔵国造の乱
       安閑2年 535年 穂波(ほなみ)屯倉   (筑紫の国)
       安閑2年 535年 鎌(かま)屯倉      (筑紫の国)
       安閑2年 535年 湊碕(みさき)屯倉    (豊の国)
       安閑2年 535年 桑原(くわばら)屯倉   (豊の国)
       安閑2年 535年 肝等(かと)屯倉   (豊の国)
       安閑2年 535年 大抜(おおぬき)屯倉   (豊の国)
       安閑2年 535年 我鹿(あか)屯倉      (豊の国)
       安閑2年 535年 春日部(かすがべ)屯倉  (火の国)と次々に設置。「筑紫より西はおまえにまかす」と物部尾輿と約束をか        
                 わしたはずだが?北部九州はどんどん大和の支配下へ。
       安閑元年 534年 横渟(よこぬ)屯倉  (埼玉県比企郡吉見町)
       安閑元年 534年 橘花(たちばな)屯倉(神奈川県川崎市・横浜市東北部)
       安閑元年 534年 多氷(おおひ)屯倉  (東京都多摩地域)
       安閑元年 534年 倉樔(くらす)屯倉  (神奈川県横浜市南部)と東国も乱の後続々屯倉が。
       上記安閑の強烈な重要地方支配体制への欽明勢力(旧河内王家直系子孫)の反駁により二朝並立の動乱期に?
536   宣化 都を檜隅の廬入野(ひのくまのいおりの)に遷す ?信憑性疑わしい? 
537   新羅が、任那に侵入したので筑紫にいた?大伴狭手彦(さでひこ)を遣わし任那を助ける 
538 百済聖明王 高句麗南下とそれに押された新羅と衝突し、首都を扶余(ぷよ)へ。多くの仏教寺院建設
539   欽明 天国排開広庭命(あめくにおしはらきひろにわのみこと)即位?都を礎城郡(しこのこおり)の礎城嶋に置く 
541   欽明、百済に任那復興を命ずる 
551   「聖明王、百済、新羅、任那の兵を率いて高麗を討ち故地を回復」日本書紀? 
552   ○百済国から高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり
552年(欽明天皇13年)百済聖(明)王の使者仏像と経論数巻献じ上表して仏教の功徳をたたえる(仏教公伝)
                             蘇我氏と物部氏の死闘開始(蘇我稲目対物部尾輿)
553   欽明14年百済国から、高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり 良い錦2匹毛氈1領斧300口捕虜の男2女5を奉る
 
554   欽明15年5月内臣、軍船を率いて百済に向かう
    百済の聖明王、新羅に殺される
    弓の名人に筑紫国造がいるー尊名として鞍橋君と附ける(要検証)※2
 

555 16 百済王の後継者に、貴方の国では祖神を祀らない、前科を悔い改め神の宮を修理し神霊を祭れば国は栄えるでしょうと後継者は父王の為に出家したいと
556   欽明17年1月、筑紫国造兵士1000名を送り百済を救援する 
557   欽明18年3月、百済の王子余昌、王位に就く(威徳王) 百済の王子余昌、王位に就(威徳王)
562   欽明23年、任那日本府、新羅に滅ぼされる 
○新羅討伐の詔下る 
○大将軍紀男麻呂宿禰(きの・うまろの・すくね)新羅討伐へ派遣 
○大伴連狭手彦(おおとのむらじ・さでひこ ※3 を高麗討伐へ派遣
570年3月22日(欽明32年3月1日)蘇我稲目死去(百済が?元岡古墳被葬者の死に対して金象嵌太刀製造した?)
                     4月、江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)は、道君が高麗の使人漂着の事実を秘匿していることを             天皇に奏上する。
                     4月、朝廷は道君に命じ山城国相楽郡に相楽館(さがらかのむろつみ)を建てて客館とした。
                     4月、朝廷は東漢氏直糠児(やまとのあやのうじのあたいあらこ)、葛城直難波(かずらきのあた            いなにわ)を(越に?)遣わし                     
                            て、高句麗の使節をむかえいれた。
                      5月、朝廷は、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)を遣わして、高麗の使人をもてなした。この            ときに、道君が高麗の使人への旅費を横領していることが発覚。朝廷に報告された。
                      7月、高麗の使人、近江へ行く
                      7月、朝廷は、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きしのあかはと)に命じ、飾り船で、琵琶             湖北岸に高麗の使人の迎えに遣わした。
571年欽明324月、欽明天皇崩御
571  ○新羅に使を派遣し任那が滅びた理由を問責する 
572 敏達元年 敏達天皇即位 
○百済大井(奈良県広陵町百済)に宮を造る  
○王辰爾(おうじんに)欽明31年漂着高句麗使節の国書(烏羽の表)読み解く 
  5月1日、高麗の使人、このころ未だ相楽館にとどまる
                      5月15日、王仁爾(おうじんに)が高麗の使人の国書を読み解く
                      6月、高麗の使人のリーダーである大使が部下に殺される。
                      7月、高麗の使人帰国
584   蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る 
585   31用明 ○橘豊日皇子が即位 
○蘇我馬子、大野丘の北に仏塔を建てる 
○物部守屋・中臣勝海ら仏塔、仏殿を破壊する 
587   ○用明天皇崩御し、泊瀬部皇子が即位 .
○蘇我馬子、物部守屋を河内で倒す(用明2年5月) .
○聖徳太子、四天王寺建立発願 .
○蘇我氏、法興寺(飛鳥寺)建立発願 .
588   32崇峻 ○蘇我氏、法興寺(飛鳥寺)建立開始
582年任那日本府滅亡
※参考年表
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/japankokogaku2.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E7%A8%B2%E7%9B%AE
http://egf.air-nifty.com/hyoryu/H0570a.html
http://www9.plala.or.jp/kinomuku/5nenpyou1.html
 
 

※1●九州の屯倉の歴史
「九州の屯倉は、磐井の乱後に数多く設置されています。
継体天皇の治世21年(527年)6月に近江毛野臣(けののおみ)は六万の軍隊をひきい任那へと向かいました。新羅に破られた加羅国を取り返し任那を復興する為でした。筑紫国造磐井は前から反逆の意志を持っていてスキをうかがっていたそうです。それを知った新羅は密かに磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍が海を渡るのを遮る事を求めます。磐井は筑紫、火国(後の肥前、肥後)、豊国(後の豊前、豊後)の勢力を集め毛野臣の渡航を遮ります。
そこで朝廷は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍として派遣、翌年11月に磐井軍を破り斬殺しました。その後、磐井の子の葛子(くずこ)は父の罪に坐して殺される事を恐れて糟屋(福岡市東部)の屯倉(みやけ)を献上しました。」
http://web.joumon.jp.net/blog/2009/03/000765.html
 

※2●筑紫国造鞍橋君 くらじのきみ http://kotobank.jp/word/%E9%9E%8D%E6%A9%8B%E5%90%9B
 ?-? 6世紀の豪族。百済王余昌と同時代人。
筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)。欽明(きんめい)天皇15年(554)百済(くだら)(朝鮮)王子余昌が新羅(しらぎ)(朝鮮)にきずいた山城久陀牟羅塞(くだむらのそこ)(慶尚北道北西部)が新羅軍に包囲された際,弓矢で奮戦し余昌を救出。このとき矢が鞍の前後の橋(くらぼね)を射とおすほどの力があったため,余昌から鞍橋君の名をあたえられたという。
 
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※3●大伴狭手彦略伝
「宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し朝鮮半島に派遣され、任那・百済救援に活躍。肥前国松浦郡の娘子(おとめ)との悲恋説話はこの時のもの(肥前国風土記逸文、万葉05/0868~0875)。欽明天皇23年(562年)、大将軍に任命され、兵数万を率い、百済の計略を用いて高句麗を討つ。逃亡した高句麗王の宮に進入し、多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、七織帳を天皇に献上した。武具並びに捕えた美女媛とその従女は蘇我稲目大臣に送り、稲目はこの二人を納れて妻としたという(書紀の分注には11年とある)。なお861(貞観3)年8月の伴善男の奏言によれば、狭手彦は金村の三男で、宣化天皇の代、新羅を征し、任那を復興し、百済を救けた。欽明天皇の代、高句麗の侵攻を受けた百済救援のため大将軍に任命されて高句麗を討った、という(日本三代実録)。」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/sadehiko.html

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◆以上の資料から元岡古墳被葬者を推定すると・・・
筑紫国造鞍橋君【くらじのきみ】

となるだろう。
 
その2その理由と重要な発見に続く