「東日本大震災のあと、アニミズムという言葉が浮かんでくる理由は、何となくわかります。それは阪神淡路大震災の後にそこで起こった現象と、三陸沖で起こった大津波と、福島で起こった原発の事故、その一連の出来事の中で、大きく浮かびあがってきたものとは、無視できない異質性があります。阪神淡路大震災の後は、人間のつながりが非常に印象的でした。人間同士の助けあいや、相互互助の精神が大きく浮かび上がった。ところが、東日本大震災で露わになってきたのは、人間同士の助け合いという側面だけではないものでした。人間と自然との間のつながりとか、人間が海や森や里山を通じて、自然との関係をつくってきたものの本質は何だったのか、そのことが大変印象的な形で露わになってきたような気がします。
 
日本の歴史を見てみますと、西日本と東日本では、文化的にもDNAの細かい構造においても違いがあると言われていますけれども、とくに文化や精神的(メンタリティ)な側面に関しては、大きな違いがあります。東日本と呼ばれている世界は、平安時代くらいまでは蝦夷(えみし)の勢力というのがたいへん強かった。今で言うと、名古屋の熱田神宮辺りが境目だと言われていますが、あの辺りまでがいわゆる縄文文化地帯と呼ばれるものです。2500 年くらい前になりますと、西日本に大陸や朝鮮半島から新しい技術を持った人々が大量に移民、移住してきました。この地帯ではそれ以降、稲作を持った弥生系の人たちの文化が主流になっていきます。
 
ところが東日本の方では、こういう時代が無く、もともと狩猟・採集を行っていた「蝦夷」と呼ばれた人々の住む広大な地帯ですが、その文化が鎌倉時代や室町時代まで、かなり長い間大きな影響力を持って持続し続けます。つまり、東北文化としてかたちづくられてきたものは、このように北方から日本列島へ入ってきた人々による狩猟・採集文化がベースになっている。そこに、稲作の文化が入りこんできた。さらに近世には、藩による開発が進んで、いわゆる「東北文化」が形成されるようになってきたわけです。東北文化と呼ばれているものは、西日本に展開した日本文化とはちょっと色合いが違うものがあります。今回の大震災で、私たちの目の前に露わになってきたものは、この東北文化のベースの部分なのでした。
 
二つほど、大変印象的だったことがあります。一つは、大震災の直後から、三陸沖の海岸沿いの村々が大津波でひどい被害を受け、漁村も大打撃を受けましたが、その時の報道で漁師の方々が話をされる中で、「海は怖いでしょう?」とアナウンサーが聞くと、漁師さんたちは、「海は怖いけれども、海は自分たちにとってお母さんみたいにとても大事な存在なんだ。大津波のときは巨大な化け物のようになって人間に襲いかかってきたけれども、今はもうこんな静かな海になっている。そして、そこにたくさんの魚がいるんだ。俺たちは、船団を連ねて、その魚の群れの中にこれから一日も早く出かけたい。」と言っていました。そして、「魚の群れの中へ船を突っ込んで…」というところで顔付きが変わるのがわかりました。今までは悲痛な表情で災害を語っていた人達の表情が変わって、魚群に、網を入れ竿を入れ、魚が次々と引き上げられてくる。そのときの喜びを語り出すのですね。そして、「自分たちがこうやって釣り上げた魚を、日本全国の人たちに配ってやりたい」と、何人もの漁師さんがされていたのがとても印象的でした。(後略)」
 
京都環境文化学術フォーラム「グローバルコモンズを目指して」―東日本大震災の経験から考える未来への道―<基調講演>テーマ「たたかうアニミズム」2011 年 2 月 11 日 中沢新一氏:人類学者、明治大学野生の科学研究所所長
 
 
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東北人には、中世以降、あとから入った開拓民でさえ、すでにそこにあった蝦夷たちの野生の思考を受け入れる風土が根付いていた。それは蝦夷と同化し、ともに暮らしてきた三陸海岸などの漁民・・・つまり壱岐対馬から熊野紀伊半島、太平洋沿岸をさかのぼって伊豆・三浦半島~房総半島~三陸海岸へとすでに縄文時代にたどりついていただろう海人族との共同体理念である。
 
同じように大自然に敢然と立ち向かう野生の申し子たちである。
日本人の底流にある自然との協調を、明治以降の貨幣経済の中でも残存させてこれた彼らの共同体意識。
西欧人のように大自然を征服するのではなく、厳しすぎる環境を神とし、貧困と苦難をご加護とし、押し黙り、もくもくと、そして頭を下げて焼畑にまい進し、荒海へ乗り出して獲物を獲て、また山々へ入り込んで野生動物を獲て、女たちは里山では山野草を採集し、海岸では海藻や貝類を採集し、栗をそだて、どんぐりをひろい、そして海と山(蝦夷と海人)がそれを交換しあわねば生きられなかった世界。つまり縄文の生活が大幅に残存できた世界。
 
そういう生きかたが今、再び問われている。
ワークシェアによるワーキングプアの現代日本に、この東北的な助け合う文化を取り戻せないか?そう中沢は模索するのである。
 
いわゆる貨幣経済社会からの転換である。
 
しかし、東北はかつて出稼ぎの世界でもあった。東京へ金を稼ぐために出かけねば、貨幣経済に毒された昭和を生き抜けなかった。それが次第に東京のための下請け産業(かつてはタバコなどの官幣産業)が作られてものづくりの世界になっていった。電力を作り出す原発はその最大の貢献度で存在した。それはつまり貨幣経済=弥生の志向についに毒されたということだ。
 
そこに津波と放射能がやってきて、頼みの綱だった下請け産業も立ち行かぬところまで追い込まれてしまった。だから縄文からの野生は復活したのである。
 
しかしながら、東北の行き方はなんとか今後二十年の新しい日本の方向に光を差していると思いたい。
この与えられた苦痛と逆境を、むしろチャンスと思える、そういう乗り越える日本人になっていかねばならないのだろう。