諸兄すでにご理解のように、人類のすべての思想、考え方には、必ず表裏がある。その思想・観念の良きところは常に裏側にある悪しき部分と同居する。

宗教・信仰もおしなべて同じである。

東洋思想に古代から存在し続けた孔子の儒教は、わが国近世において、主として武家社会において国学・朱子学として日本の方向性を内向きにし、それは西欧に向かって開かれなかった江戸幕府の存続の柱となった。儒教の内向性はまさに武家社会の閉じられて官僚的な、狭い世界観には最適であり、それがつまりは武士道の本体であった。儒教は中国を古代思想の相も変らぬ「眠れる獅子」にし、朝鮮半島を卑屈な負け犬根性と男尊女卑の根付く国にした。内にこもらせたうえに、中華理念の正当化に使われた。

ゆえに明治の西欧に向かって開かれた視野にとって、その古い時代の儒教思想の根強さは、南朝鮮ほどではないにしろ、維新を契機に政府が払拭したい悪しき観念の代表ともなったであろう。


6f32c2ad.jpg





しかるに、東北、会津でそれはきわめて遅れてしまったと言わざるを得ない。
そもそも会津藩が儒教・国学に力を入れねばならなかった背景は、まずは転々とした藩主・管理者の歴史と、維新前に赴任した松平家の徳川幕藩体制遵守という儒教思想そのものである。徳川幕藩体制下の直轄地、天領ほど、当然、武家官僚体制は遵守される傾向にあるのは当然である。幕末においては、新進の西欧軍備を欲するようになるのだが、ついに会津は、薩摩や長州のようには、勤皇・維新への道を突き進むことができなかった。オヤカタが佐幕の権化である松平家では、いたしかたあるまい。

しかし原因はそればかりではなかった。
縄文の野生の思考は西日本においては江戸近世以降、完全に消えてゆく。渡来文明による国家統一の流れが速かった西日本では、縄文からの反骨はすみやかに根絶やしになり、融和が早かった。
東北の地においてそれが遅くなったのはひとえに、その気候環境の厳しさによった。
まさに東北、北海道は日本で最後に「日本になった土地」だったのであり、江戸幕府が持ち込む儒教思想もまた西より遅れたために、理解のバリエーションが増えるのも遅くなる。頑迷な初期儒教導入の理解度から、広がりとゆとりと持つようになる「こなしの時期」を迎える間もなく、会津福島以北は文明開化を迎えてしまう。そこに戊辰戦争・白虎隊の勃発登場する理由があった。

明治維新がなにゆえに西国諸藩によって始まるかの答えはここにしかあるまい。北国はどうしようもなく遅れてきたのだ。雪と厳寒と反骨が融和を阻止してきた。あがらいがたい歴史である。

新島八重を同志社学生時代の徳富蘇峰が「ぬえ」と揶揄したのも、儒教の権化であった会津出身でありながら、正反対のキリスト者であり、ハイカラなイギリス生活者であった新島襄とのミスマッチな婚姻への、当時の日本人の常識から見た素朴な疑問からであり、蘇峰のその素朴な常識こそが、実は民主化思想にほど遠い男尊女卑そのものであったことは滑稽である。

男尊女卑こそは儒教思想の第一の悪しき部分だった。

南朝鮮がそうしたよに、強力に根付きすぎた儒教思想を変えるには、正反対の思想を強要するしかない。それが往々にしてキリスト教の博愛主義であった。しかし富国強兵による西欧型帝国主義を目指す明治政府は、維新直後一旦解放したキリスト教を、皇国史観の邪魔として再び迫害し禁止することになる。
新島襄と八重の結婚生活はそういう時期に始まるゆえに、困難が多かった。

砲術家の家に生まれた八重は、勝気な性格で男勝り、容姿は夫が手紙に書いたようにぶさいくであった。体格は平均的日本人女子よりもやや大きく、女の身で、父・兄の砲術に興味を持つ。生まれながらにして彼女は確かに「ぬえ」であった。
最初の夫と別れた後、今度は帰国インテリの新島に見初められ、京都へ移住する。その京都がまた、平安からの神道・仏教・道教・修験道、渡来文化と縄文文化の入り混じった怪奇な土地柄であった。キリスト教も革新思想も、京都は平安の国風思想で取り込んでしまうような、新進に許容度のある反面、内面はまったく平安の雅(みやび)でオブラートしてしまう場所であった。
古さと新しさが反発しながら同居する。
そのためか、新島襄のイギリス譲りのレディ・ファーストは、それを堂々と受け入れる妻・八重をして、悪女悪妻の汚名を着せてはばからなかった。彼女もまた薩長を差別し続けた。当時の日本でなら、どこでもそうだっただろう。日本人は本場・本物がそうするのを見ないうちは、容易にそれを受け入れられぬ男尊女卑が根付いた国だった。それは武家が江戸時代に民衆に押し付けた観念である。「論語」の偏愛がそれを招いた。論語と儒学こそは江戸幕府の政治理念、統一理念の根幹だったからである。

会津は被差別者だった渡来系技術者が多く連れられてきて、蝦夷縄文人と同居するお国柄である。つまり官僚主義的な上下関係はそこから始まっており、おしなべて北関東以北の東北文化とはそうやってできあがっている。西日本から見れば、そこは今でも「異界」なのである。南関東・・・東京以南までがようやく「日本」なのであり、それより北は正真正銘の「和の国」の外だという思いがいまだに残っている。福島でも特に会津は古墳時代からそうであり続けたと言ってもいいだろう。ちょうど沖縄やアイヌと同じ蝦夷の国家に、西からの融和する国家体制が遅れて入り込んだ、日本の「属州」であり続ける。京都にやってきた八重はまさにその代表的存在であったと言える。

いずれにせよ「論語」思想が懐古趣味によってクローズアップされるようなことは二度とあってはならない。果たして、NHK大河ドラマは最終的に何を言いたいのかよくわからない。震災と原発事故からの復興を勇気づけるためならば、なにゆえに会津なのか?なにゆえに変われなかった古き会津なのか?に注目しつつこの一年、この番組を注視せねばなるまい。それは儒教思想の復活や皇国史観の復興になってしまいはせぬか。危険をはらんだ右の思考性を国民放送は選ぶのか?押し付けはごめんこうむりたい。

押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・