ケルティック・クランと秦氏 序章
 
 
さわりだけ全公開しておこう。
 
「無謀にも」と書いた理由は、ケルトと秦氏では、地域も年代もかけはなれた両氏族ゆえであるが、意外 に両者には共通点は多い。ともに茫洋としてつかみどころがなく、あまりに多様な血脈の混入があり、広範囲に棲んでいた。もちろん似た部分だけをとりあげるだけなら、どんなクラン(氏族)にも共通性はあり、洋の東西でも共通点等やまほど見つけることは可能である。それではまるで「とんでも本」の秦氏(はだ・うじ)とイスラエルの民を比べる眉唾ものと変わらなくなる。似ていない部分もとりあげつつ、双方を「=」として扱わぬ心がけが必要だろう。そうした公平な視点で分析した結果、あれ?もしかして・・・?などと読む人に思わせられるなら願ったりである。
 
 
 
ケルト(Celt あるいはセルト)という言葉はギリシアではじめて記録され、意味は「隠れた」という古ギリシア語のケルトイ(Keltoi)と歴史家ヘカタイオス(BC550年頃の人)が記録してからである。あるいはガラタエとも言われたが、これはガリア地方の人と言う意味になる。とは言ってもガリア人すべてがケルトだったわけではない。ケルト民族がガリアに多くいたローマ時代までの通称にすぎない。ローマではあのカエサルも彼らを「ガリ」「ガラタエ」と呼び、ストラボンも、ディオドロス・シクルスも、パウサニアスも、名だたる歴史家はみなケルタエ=ガリア人と考えていた。
 
しかし、厳密に言えばケルトという氏族ないしは民族はあまりにも移動した氏族で、移動先の原住民族との混血が多く、文献上も考古学上も、また遺伝子学上も、いまだに「これこそがケルトだ」と言えないままである。まさに隠された氏族、つかみどころのない民族の、総称だと思うほうがいい。フランスのケルトのことを詳細に調べても、ブリテンのケルトとはまた違う。そこで筆者としてはケルトとしてかかれる以前の原ケルト民族を想定しておきたい。
 
「初期ケルト人がヨーロッパにはじめて出現した時期は、ヨーロッパ先史時代の区分では後期青銅器時代にあたり」「あえていえばケルト人の祖先、いわゆる「原ケルト人」が移住してきたのはかなり古く新石器時代のある時期にまでさかのぼる・・・」(木村正俊『ケルト人の歴史と文化』2012)
 

 
この続きは友だちにしか読めません。
 
果たしてどこでどう、ケルトと秦氏はつながるのか?
 
それは人類の大元を遺伝子でたどってみれば一目瞭然となるはず・・・
 
双方は多くの共通点を持つが、相違点も持つ。
 
直弧文や日本の組みひもや熨斗結びのような不思議な組みひも模様。
丸に十字のケルティック十字架。
武士と同じく首を刈る風習。
ボートにこだわる歌の数々。
 

 

 
それら習慣の数々の分析が、東西の隔絶しているにも関わらずあまりにも似ている人類の不思議のもつれが、いつの間にか綾取りのようにほどけてゆきます。ああ、だからだったのか?目から鱗がはがれます。原点はそもそも西アジアに。ケルズの書にもそれら世界の原民族共通の生命の再生と永遠へのあこがれは見て取れなくてはならない。
 
 
 
 
 

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