「ハタ」の氏族を、古代の日本人はどう捉えていたかというと、「波多」「はだ」の人である。
「はた」「はだ」とはなにかと言えば、浪を越えてやってきた帰化人のすべてである。

ヤマトの葛城山山麓には、もともと弥生時代から葛城の民が住まっており、彼らと久米・阿曇・
隼人らは同族関係を結んでいた。葛城が北部九州からやってくるとき、南部九州の海人族を頼ったからである。葛城や鴨が出雲系と言われるゆえんは、そもそも弥生時代から北部九州に来ていた長江渡来民が出雲を良港として入ってきていたからである。

葛城山麓には同じ武内宿禰末裔としての波多臣が存し、ふたつは同族となっている。的臣もしかり、紀氏もしかりだった。4世紀あたりに渡来した秦の民は「波多臣の祖人伝説」である弓月君を、同族化することでとりこんだ。そもそも波多臣自身が海を越えて渡来した民人であり、朝廷もまたそれら海から渡来した民を「はた」「はだ」と呼んだのである。つまり総称である。

漢氏だけが「あや」と呼ばれたのは秦とは別のものということを明確にしたいがための自称である。彼らも大きくはハタノ民なのである。

松尾神社の祭神を見れば二柱の神があって、ひとつは古くからの南九州海人族の神・大山積、いまひとつは大宝元年に勘定された宗像の市木嶋比売(いつくしま・ひめ)となっている。市来嶋姫は宗像族の報じる女神の「中津嶋」に祭られるもので、北部九州玄海灘の宗像氏一族が祭る。これは松尾の隣に月読神社があって、これを壱岐氏らが祭ったことと大いに関係がある。これはしかし秦氏の中でも中心的だった山城の葛野や松尾の秦氏だけの観念であり、つきあいである。そもそもは天孫降臨に関わった大山積の海人族こそが彼らが祭る神であった。当時の海外からの渡来に際して、もっとも貢献した舟人は本来、隼人阿曇や久米をいった南九州系海人族であり、それこそが玄海灘の海人族=あま=倭人だった。それが大宝年間までに宗像をくわえるのは、宇佐が宗像三女神を迎えたのとまったく同じことで、半島系海人族宗像氏がその時代に台頭しはじめたからにほかなるまい。

そして深草の秦氏はこれまたまったく実業・商人系の別の神である稲荷を信仰した。深草が山城秦氏の同族であったならばこうした商人系信仰を持つはずはない。ということは秦氏はひとつの氏族ではなかったことを如実に示している。また豊前の秦部の影響も宗像神の信仰に影響したことは間違いなく。これはもともと無関係だった豊前秦部を山城秦氏が秦の民と認可したためであろう。つまり鉱物氏族秦氏という通念は、ここから出てくる。

「はた」とは渡来人全般のことである。

そしてその中で「秦氏」とは、京都市北西部の山城秦氏である河勝一族だけを指すのである。







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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典