インドでも中国でも、ギリシアのような客観的科学が発達した気配は見えない。人類が今のバングラデシュあたりで東西に分岐して、双方、同じように宇宙の摂理が神であることに行き着くのに、なぜかアジア人は自然科学を持たないでやってきた。
 
 
中国ではその神としての宇宙をあいまいに「天」としただけで、その構造や運動を一切論じていない(例外はある)。二十四節季にも書いたように、西欧では時計仕掛けのように正確な天動を不思議として、徹底的に天文学を発達させた結果、数学と化学が発生した。あれほどキリスト教に熱心な人々が、12世紀以後に天動説を捨て、地動説へと大変換している。これが欧州史の中世から近世への大転換の画期となったことは間違いない。ガリレオ以前、以後でそれほどの観念の違いが生まれた。
 
中国にも宇宙構造を論じようとしたものはあるにはある。
「蓋天説」や「渾天説」であるが、せいぜいどれもこれも子供の稚戯のごとき荒唐無稽で主観的な論でしかない。
 
インドにはかの『リグ・ヴェーダ』があるがこれまた観念的で、具象性は皆無である。
 
日本となると、もう完璧に星も月も恋愛や情緒的な抒情詩の対象でしかなく、宇宙そのものに言及する散文等一切登場しなかった。奈良も平安もあったのは基調学ではなく陰陽道という占いの司だけである。江戸時代まで西欧的な気象学はない。あるのは天変地異の記録ばかり。
 
なぜか?
 
 
人類が分岐して東西へ分かれたあと、到着した場所の広さに圧倒的差があったからではないか?
 
ヨーロッパは狭い。すぐに突端へ行き着く。しかしアジアは広大で、行き着いたベーリング海からさらにアメリカ大陸まで移動の道は延びている。
 
 
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つまり定住の速度が東西であきらかに差がある。
言い換えればアジア人にはアドベンチャーする広大無比な土地を山ほど持ったために、冒険することで枚挙にいとまがなかったことになる。農耕と定住がヨーロッパより遅れたのはひとえにアジアの広大さにゆえんがあるだろう。
 
一方、欧州人は西アジアですでに簡便な耕作で済む小麦を手にし、狭い方向へ移動拡散していった。小麦は農作が簡単である、荒れ野に種をまき、水やりするだけ。しかしアジア人が手にしたイネは、大変な重労働と半年以上のつきっきりの管理が必要。これでは哲学するひまもなく、まして宇宙の摂理の分析などと言う「おたく」な作業のひまがなくなる。しかもそれぞれの穀物の調理時間にも大差があった
。米の調理時間はパンの調理時間と明確に異なる。いっぺんにたくさん焼いておけばいいパンと、三度三度炊かねばならぬ米の差は、あきらかに時間の余裕、余暇に大差がつく。それだけアジア人の女性は一日の大半を飯炊きに追われてきたのである。これでは男女平等もなかなかはじまるはずはない。
 
主食に時間をかけないで済んだ欧州では、酒を飲み語らいあう時間が多かった。夜通し空を見上げて話すことは、「なぜ天空は、なぜ星は」である。「なぜ」。このなぜが観念的宇宙観からやがて緻密で詳細な顕微鏡的原子・分子へのインナートリップの始まりとなった。しかしアジア人たちはいつまでも観念的にしか天空を見上げない。自分達の移動のための道具でしかない。天の星星がどこにあるとき自分はいま、どこにいるのか?実はそれはケルトなど海洋民や、ラクダでの移動を恒とした民族特有の山あて、星あてのノウハウである。そして一番重要なことは、それら天や自然が荒れるのはいつなのかである。だから気象の異常を予測することのほうが大事だった。
この役にたたないことへの興味、「なぜ?」を考えるゆとりを持つのがアジアは完璧に西欧に遅れた。科学の始まりは金にならない不思議の研究から始まったのである。
 
 
 

 
 
科学者は、最初、まず科学とは神を否定するところから始めるが、分析してゆくほどに神の存在を意識するようになるのだという(池内了2014)。
 
そして科学は神を遠くへ追いやってゆく宿命をもつが、進めば進むほどに神は上昇し、宇宙へと遠のいたように見えて、必ず新たな難題をふきかけてくると感じるのだと言う。
 
アインシュタインは「神はサイコロ遊びはしない」と豪語した。つまり神の行いには必ず摂理があり、その摂理を人類は解明できると言ったのである。しかし「神はサイコロ遊びがすきかも知れない」と言い返す学者(ボーア)もいた。これはつまりアインシュタインの相対性理論VS既存の量子論の象徴的言辞であるという。だが、神はどちらが正しいとは絶対に言わない、どっちでもいいとしたままである。
 
科学とは事象を切り刻み、細分化する学問である。西欧科学は時間が一定方向へ進むように、人類も絶対後戻りしないという信念のもとに始まる。一定の法則=摂理は神のようなあいまいなものの規則ではなく、自然の法則、宇宙の法則の方程式があるのだと決め付けるのである。だから必死にその方程式をまさぐってきた。そうすると解明されれば解明されるほどに、神と言う存在なしにはそれは起こらないのではないか?との疑心暗鬼にとらわれていくのだ。これで決定!と叫んだ夜に、もう眠れないのである。「あれ?やっぱりこの部分は神かな?」と思い始めるらしい。ということはまだまだ科学には先の余白が山ほどある、言い換えれば将来があることになる。
 
 
ノーベル賞は昨今、実利的・・・金になる・・・研究に賞を与える傾向にある。なぜなら・・・おかしいとおもわないかい?ノーベルの資金源であるダイナマイトから得られる資金は、いったいどれくらいあるのだろうって。毎年何人もの受賞者に大金を出すほど、ノーベルに資産があるのだろうかって。資金源が少なくなれば、当然、賞は経済に関わる実利的研究へ向かう。企業からの献金が期待出来るからだ。そういう意味で、われわれが理解しやすい、目に耳につきやすい学問は、「役にたつ」科学ではあろうが、実は宇宙論や哲学のほうが、世界を大きく動かす根本論理なのではなかろうか?それが実存以後、古代や中世のように目立たなくなったのは、神を「もうわかった」としていこうとし始めてからなのだ。信仰を追いやり、暗闇をLEDのようにぎらぎらと照らし出し、神を地球から追いやっていこうとするのが科学である。そしておごったあげくに大自然に仕返しされる。戦争を生み出し、遺伝子を操作し、試験管の中から子供を生もうとする。いきつくところ、必ず神はサイコロを振り、しっぺがえしをしてきた。殺虫剤でも死なない害虫、ワクチンが効かない病原体、ウイルスを次々と生み出す。ひとつの種がほろびれば奇天烈な実験?新種を作り出す。それが摂理である。まだまだ人類は神に翻弄され続ける。いや、実は神のしっぺがえしは最近では十倍返しどころではなくなってきている気がする。そうは感じませんか?諸君。
 
 
 
 
 
次回はクリスマスにちなんで再びケルトについて。
 
 

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