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松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)
 


伊賀上野赤坂農人町(現在の三重県伊賀上野市赤坂町)出身
 (柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり。親が柘植から※1赤坂へ引越ししており、芭蕉出生が前か後かが不明ゆえ。これはどっちでもよかろう)

父、松尾与左衛門(当時※2「無足人」と呼ばれた郷士・地侍級農家)の次男。
幼名、金作。通称甚七郎、甚四郎。

武家俗名、松尾忠右衛門宗房。

俳号、初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
蕉風(しょうふう)と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立、後世、俳聖。
十九歳の時、藤堂藩の侍大将の藤堂良精(ヨシキヨ)の嗣子、良忠に子小姓として出仕。
主君・良忠とともに俳諧を学ぶ。
二十三歳の時、良忠が病没し主家を自辞。俳諧の道を歩み始める。
元禄二年(1689)三月末、江戸を立ち、門弟河合曽良(かわい・そら)ただ一人伴って、奥州への旅に出る。 この旅の俳諧紀行文が有名な『奥の細道』。

河合曽良にも実はそのときの旅日記『曽良旅日記』があり、※3その行動が比較できる。
 
 

※1 伊賀上野赤坂町
※2 無足人(むそくにん)
① 所領がなく扶持米だけを支給された下層の武士。無足衆。
②田地をもたない下層農民。(ことバンクより)
無足人は明治維新後、士族にはなれず、その大部分は「卒」扱いのままにされた。
明治5年に「卒」身分も廃止。
ただ、伊賀上野藩の場合はやや状況の違うものがおり、
 
「かつて、伊賀の郷士たちは「伊賀惣国一揆」を組んで守護大名の支配に抗して自治をはかり、各々、 伝統の武芸である忍術の修練に励んだが、やがて、織田信長の二度にわたる伊賀討伐によって壊滅する。 この時、多くの者が全国に四散して諸大名に仕えたが、また多くの者は郷士として伊賀に留まった。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html
とも聞く。
 
 
要するに伊賀の無足人は、その中に武芸・忍びにたけた伊賀者、つまり間諜(スパイ・お庭番・忍びの者)もいたことになる。もちろんだからと言って芭蕉の父、松尾与左衛門もそうだったという証拠は何もない。ただ「松尾」姓は山城の秦氏が居住した松尾大社(まつのお)周辺の名乗りであるので、伊賀や柳生の忍軍の始まりがもと秦氏部民の服部一族にあるとする説はかなり言われることではあろう。

ちなみに室町将軍に寵愛された能楽師・観阿弥・世阿弥親子には「秦」姓を明言しており、世阿弥作『風姿花伝(花伝書)』序文に杉の子服部(すぎのこはっとり)」秦元清と署名してある。
 
また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。
 
阿弥」とは京都などの犬神人(いぬじにん・寺社境内に巣食った遊び人で、神人(しんじん)とも言うが神社の掃除や用心棒をする程度の、いわゆる乞食や芸人の集団であり、その中心的存在は多く山城秦氏らの下人(秦人・秦部)であったと言われる。そのはじまりは秦氏が聖徳太子を祈念して奉仕した広隆寺境内にあった大酒神社からであるとされる。なお、豊臣秀吉や徳川家康の父も、そうした犬神人集団から出た乞食坊主、厄払いを旨とする回遊者であったと言う。多くが弓の弦を売り歩いたので弦召(つるそめ)とも)のことである。
 
彼らは中世~江戸期にかけて下級武士であったものがいくさがなくなって磊落したものが多く、教養の高いものもいた。ゆえに職農民としては最下層の被差別ではあったが、芸能などで貴人パトロンに囲われたり、放浪の途中、家康の父のように良家に取り入り、養子となるものもあったらしい。

芭蕉が「松尾」「無足人」という理由だけで忍者スパイの役割を持った秦部の出自だったかどうかは不明だが、少なくとも、観阿弥・世阿弥親子は間違いなく上記出自だっただろうと思われる。芭蕉が下級とは言え武家の出でありながら俳諧などという芸能の道に進んだかの理由を求めるには、これしかとっかかりはありえない。つまり忍びが術のひとつとした符牒や他にわからないような言語、文字の基盤に、古代から続いた和歌・猿楽・念誦・隠れ蓑・暗号・薬品製造・火薬や製鉄、塩作りなどがあっただろうことは想像に難くなく、旅をするための天文遁行(てんもんとんこう、道教による統計的天文学・気象学など)を知っている可能性は高い。
 

※3 河合曽良旅日記と「奥の細道」の道程齟齬
「芭蕉隠密説が、その決定的な根拠とするところは、 その東北旅行に同行した河合曽良の「曽良旅日記」(「奥の細道随行日記」)と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に、八十個所以上にのぼる食い違いがあることである。 まず、江戸深川を旅立った日から既に食い違っている。 芭蕉は三月二十七日、曽良は二十日としている。 芭蕉の「奥の細道」は文学作品であるから、ある程度の文学的デフォルメがあるのは已むを得ないにしても、 その食い違いの多くは、そのようなことでは解釈出来ず、 そこには、何か隠されたものがあると見ざるを得ないと云う。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html
 
 
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NHK出版『歴史発見2(奥の細道・芭蕉、謎の旅路)』1993 によるところでは、芭蕉がこの紀行で探っていたものとは 山形特産紅花の栽培技術ではないかという。

 眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
 
 行末は 誰(た)が肌ふれむ 紅の花

芭蕉、山形尾花沢?で詠んだ二句である。
 
「芭蕉が尾花沢に着いたのは5月17日で、6月朔日(ついたち)に大石田をたっている。その間すすめられて山寺を訪れたのは5月27日と翌28日で、新暦になおすと7月の13・14日で、紅花が咲きほこっている時期であった。沿道に咲き乱れた紅花は、芭蕉の興感をさそったことであろう。
 
  紅花の研究家今田信一先生は「二つの句を味わってみると、『眉掃』の句は咲き始めの可憐な一輪咲きを見つけて心をひかれた時の句であり、『行末』の句は畑一面に咲き誇った紅花のあでやかさに打たれた時の句であろう」といっている。
 
  紅花栽培の北限は東根北部であるが、この附近では4月上旬に種をまいて「土用一つ咲き」といって、7月中旬に咲き始めるのが普通であった。これに対し、山形付近では4月4・5日頃に種をまいて、「半夏一つ咲き」といって、7月2・3日頃から咲き出すのが通例であった。
 
この紅花の開花期と二つの句の味わいを重ねてみると、『眉掃』の句は東根附近で咲き始めの紅花畑を眺めた時の句であり、『行末』の句は山寺街道沿いの、満面と咲きほこった紅花畑を眺めた時の句であろう、ということになる。
 
 芭蕉は尾花沢から南下して山寺立石寺に詣でては有名な「蝉」の句を、その途中でこの「紅花二句」を残したことになる。 」
http://www.benibananosato.jp/kahoku/lib01/211benibananiku.html

紅花が化粧に使われ始めたのは奈良時代。それまでは顔料や水銀である。従って紅花は高級品であり、貴族や武家しか買えない代物である。その紅花を詠んだ句を二句も書き残した芭蕉にはどのような意図があったか。

二番目の句に「誰が肌ふれむ」とあるように紅花は着物の染料でもあった。また上の句は「眉掃き」とあるので、紅花の穂先を、眉を刷く丸いハケと見た句である。今で言うなら似ているのは頬紅用のチークブラシであろう。
 

ここから考えられるのは、もし芭蕉に紅花の栽培法やその種を求めさせた人があったとすれば、それはどうやら良家の子女ではなかろうか?ということである。
だが、俳諧と云うものは中世の連歌から発展したものであるが、中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴するので、しばしば諜報活動を担わされた例がある。 室町時代の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。 宗長は今川家の有力な家臣である朝比奈氏の掛川の城を詳細に探索し、日記の中に書き残している。すれば芭蕉にはほかの調査以来があったとしてもおかしくない。そもそもなにゆえにはるかな伊賀から、北上したのだろう?なぜ西海道や南海道ではないのか?なぜ紅花が満開になる北国の夏にあわせての出立だったのか?
 
 

もうひとつの仮説は芭蕉は義経の残影を求めて平泉を目的地にしたという説である。

        夏草や つわものどもの 夢の跡

なるほど平泉・・・。
 

また芭蕉はカラスの句を三つも詠んでいることから、八咫烏に惹かれて旅に出たという説もある。http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_163.html
 
 
いずれにせよ年齢45で歩いたその速度は異常に早い。
 
 
「もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに
 
  草の戸も住替る代ぞひなの家
 
 面八句を庵の柱に懸置。」
奥の細道序文
 

ここでは宮城松島のことがどうしても気になって・・・と書いてある。

別の箇所には、道祖神(庚申さま、つまり伊勢の猿田彦)に心惹かれて自分は旅に出た・・・とも書かれてある。

芭蕉はしかし道祖神に旅の中で一回も立ち寄ってはいないようだ。????
 
 
さてさて、松島といえば塩釜、塩竃である。
塩竃神社は、要するに海人たちが藻塩を作っていた土地で、塩竃とは鉄製の巨大な鍋であるが、実はここに祭られているご神体は、大津波によって海に流され、のちに拾い上げられた四枚の大なべである
 

つまり芭蕉が探るとするならば伊達藩の製塩と製鉄技術のほうが紅花よりも可能性が高くなるのではなかろうか?


塩竃神社についてはかなり詳細な描写をしているが、なぜか句は詠んでいない。何か詠んでいる場合でないなにかの目的があったか?である。

 「最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。 当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、 伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。 そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。 事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html

ということは芭蕉のクライアントは伊達藩の動向、経済が非常に気になる幕府の意向を受けた水戸藩でいいということになるだろうか?
 

いや、筆者には芭蕉がスパイだったとは思えないのである。

芭蕉は俳諧師、芸術家でしかなかったのかも知れない。
つまり八咫烏や道祖神や海人のも塩と読んでゆけば、そこには彼の死生観が如実に滲みでてくるのである。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)、巳刻過ぎ(10 -11時頃)大地震、昼八ツ時(午後2時頃)に大津波(現地時間)が起きた。芭蕉はまだ生まれていないが、この話題は関東地方でかなり長く語り継がれることになるほどの大被害をもたらしている。『武藤六上衛門所蔵古大書』には「大地震三度仕」とあり、3度大きく揺れたことになる。当時、日本を探検中のビスカイノらも、奥州沿岸の測量中に地震と津波に遭遇し、その記録を残している。
芭蕉が生きた年間に地震は数回あった。

1649  関東地方南部 ? 多数 
1662/05/01 畿内・丹後・東海西部地震 滋賀県 7.4? 多数 
1662/09/20 日向・大隅地震 宮崎県沖 7.6? ? 
1665/12/27 越後高田地震 新潟県南部 ? 1,500 
1677  房総半島沖

特に奥の細道出立(85年)の直前では65年と77年、特に江戸に住んでいた芭蕉にとっては77年の房総沖大地震による津波は、前から知っていた三陸沖の大津波の伝承を思い起こさせたかも知れない。

地震と津波によって、どちらも多数の死者を出している。これが芭蕉の古代祭祀氏族秦氏の部出自というものから身についた独自の神秘的死生観の琴線を、強く振るわせたのではなかろうか?道祖神、黒い烏、塩竃、源義経、赤い紅花そして大地震・・・これらに、人間の心の奥の後戸(うらど)を扱ってきた往古の神人血脈が「死」を俳諧師に想起させた・・・?
 
芭蕉が経巡った順路をもう一度見てみよう。福島、宮城、石巻、三陸、新潟、そして日本海・・・大災害や大いくさ、そして大きな寺社があるとこを選んで巡っている。それはただの観光旅行ではない。俳句を詠むものなら当然歴史的知識も多くあったことだろう。
 
当時の旅とは生死をかけて出かけなければならないものである。旅することそのものに死生観があった。富士山へ上るときも、熊野・伊勢・四国遍路にゆくときも、必ず江戸の民はまず築地・吉原そばの三角州あたりの河原で精進潔斎、沐浴をし、大山詣でして旅の安全と無事を祈ってから出かけたのである。旅には死生観が常にまとわりついていた。だから芭蕉の旅もまた、おのれのいのち、民衆のいのちの長く続くことを祈念する意味があったはずである。
 
 


 

さてさて・・・?
ともあれ、今日は芭蕉忌である。
妄想はさておき、俳句でもひねろうではないか。
 
 
 
 
 

       わび庵 一句ひねれば ここも青山(せいざん)
       

        人間(じんかん)は 田畑でさえ 秋葉かな
 
 
 
 
 
 
 
おそまつ
 
 
 
 

 
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