昨日の考古学ニュースで大阪府摂津地域にある茨木市東奈良古墳から、同じく茨木市の阿武山(あぶやま)古墳から出ていた塼(せん・焼成レンガの一種)とよく似た一枚の塼が出たと発表があった。
日経新聞など
 
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塼を拡大した画像 もっと拡大できます。
 
 
 

 
 
 
うねるような渦巻きの連続模様でよく似ているのだが・・・?
微妙に違うとも、色が違うとも見えてしまう・・・?
 
 
 

●鎌足三嶋別業
「『日本書紀』は、大化の「改新」の偉業を目前に控えた皇極三年春正月、中臣鎌足(なかとみ・かまたり,614~669)が、神祇伯(長官)への就任を固辞して「三嶋の別業」へ引きこもり、改革の進め方についての思案を重ねたと伝えているのですが、彼の本業(本拠地)が大和国のどこかであったのに対し、もう一つ、安心して思索にふけることの出来た場所が摂津国三嶋の地にあったようなのです。

確かに『大阪府全志・巻三』という書物によれば、摂津国嶋上郡だけをとってみても天児屋根命を祭神とする春日神社、八幡神社などが二十近くも鎮座、奈佐原には彼のものではないかと推察されている阿武山古墳が存在しています。また、三嶋という土地そのものが早くから開発され、大和の中央勢力との結びつきを強めていたことが「記紀神話」でも度々語られていますから、鎌足の「出世」を支えたに違いない、確かな地盤があったことを想像させるのです。」
http://www.ten-f.com/kamatari-to-mishima.htm
 
三島に別業(別荘)を持っていたのは鎌足だけではない。
高槻に孝徳大王即位前の軽皇子も別業を持っており、そこへ鎌足は訪問し、最初の蘇我入鹿暗殺計画を打ち明けている。
 
東奈良遺跡は集落遺跡で非常に大きな遺跡でもある。
 
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瓦や塼のデザインには流行もある。近くで出たから同じ人のものとは言えない。
 
 
ではこれまでのほかの遺物や記録での分析はどうなっているか見てみよう。
 
 
 


 
 
 
阿武山古墳は鎌足の墓か?

●考古学から
「まず、近年の阿武山古墳ニ鎌足墓説2) を挙げると、猪熊兼勝氏がX 線写真から新たに判明した冠などを拠り所に主張しており[猪熊 1988 ・ 1994J 、直木孝次郎氏も文献史料の再検討から猪熊説を肯定している[直木 1988J 。
考古学でも一般に、鎌足墓とする見解が根強い[梅本ほか 1995J 。それらに対して、奥田尚氏は、文献史学の立場から猪熊説に異論を提示している[奥田 1997 a J 。続いて、中村浩氏は、出土須恵器が鎌足の没年には合わないと指摘し、文献史学による既往の研究成果もふまえ、当該古墳の被葬者は藤原鎌足ではないとしている[中村 1998J 。」
 
「阿武山古墳が尾根項上部に単独で立地する点や須恵器の出土地点・出土状況から考えて、後に他の時期の遺物が混入する余地はほとんどなく、森田克行氏などの指摘のように、内容的なまとまりからみても、この阿武山古墳に伴う須恵器と考えざるをえない[森田 1983J [中村 1998J 。
 
それを前提に、須恵器の実年代観をみていきたい。この点については、実に様々な見解が出されている。猪熊兼勝氏は 7 世紀初頭とみなし[猪熊1988J 、森田克行氏は 7 世紀第 2 四半期の前半を下らないもので、 7 世紀の第 1 四半期と第 2 四半期の聞とする[森田 1983J 。そして中村浩氏は、7世紀の第 2 四半期、さらには640-650年頃に置き[中村 1998J 、ごく近年の研究として佐藤隆氏は、阿武山古墳を藤原鎌足墓かという想定のもとに、実質的には 7 世紀第 3 四半期頃に位置付けている[佐藤 2003J 。」

「まず、阿武山古墳出土須恵器について最もまとまった検討を及ぽしているのが、中村浩氏である[中村 1998J 。しかし、中村氏の当該期の編年案は、杯H (図 1-8 ・ 9 ほか)と杯 G (図 1 -10 ・ 11 ほか) 3) を主な指標にII ・ III型式に大別するが、杯H と杯 G を一系列的な型式変遷とみなす点で、既に指摘があるように問題視せざるをえない[佐藤 2003 ほか]。
 
そうなると、飛鳥地域の消費地資料に基づく編年案 (1飛鳥編年J) が、年代推定根拠を伴うことも合めて、現状では最も妥当性の高いものと言える。ところが、その飛鳥編年も編年指標などの点では、必ずしも固まったものではない。本来は筆者独自の編年設定を行うべきかもしれないが、資料不足の部分もあるため、さしあたり一括土器群が出土した飛鳥地域の標識的な遺構資料をそのまま用いて、比較検討してみたい。
 
ただし、阿武山古墳は摂津に住置し、その出土須恵器の産地が陶邑窯とは言えないため、厳密には飛鳥地域出土品の主な供給源である陶邑窯製品と直接比較しうるかは問題になる。しかし、同じ畿内では、産地による大きな差異が認めがたいので、飛鳥編年とも大きく雌軒するものではないと判断しておきたい[佐藤 2003ほか]。」
 
「これらの諸点から判断すると、阿武山古墳出土須恵器は飛鳥 II 末の水落遺跡段階より古い様相であり、大津京遷都 (667年)以降にまで下ることは考えがたい。そうなると、阿武山古墳出土須恵器を、鎌足の没年である 668年に当てるのは、かなり困難となる。また、より細かくみると、山田寺下層や甘橿丘焼土層よりは、杯H 身の立ち上がりがやや棲小で、法量も小さい。しかしながら、杯H 蓋や杯 G 身からみて、坂田寺段階ほどに法量は縮小しておらず、飛鳥池溝などと近似する様相だと言える。もちろん、厳密に言えば、消費地一括品の法量にもぱらつきはあるため、あまりにも細かな年代比定は、方法的に限界を有しているが、上記のことをふまえて阿武山古墳の築造年代を推測すると、 640年代でも後半、 650年前後になる可能性がより高いものと思われる。」

「以上のように、近年の資料蓄積をもとに出土須恵器を再検討する限り、阿武山古墳二鎌足墓説は蓋然性が低いと判断せざるをえなくなる。」
 
 

阿武山古墳出土官帽と翡翠の玉枕のレプリカ
 

●文献から
「摂津三島の阿武山古墳に近接して「安威J という地名が残るが、それを冠する山、「阿威山j が鎌足の墓所としてみえることが、何よりも阿武山古墳=鎌足墓説の根拠である。そして、それを記載する史料としては、『多武峯縁起』がよく知られている。この縁起は、一条兼良の述作で、室町中期、15世紀中頃に成立したとみられることが多かったが、同内容で永済の草案により暦仁 2 年 (1239) に成立したという詞書を持つ『大織冠縁起』の存在が確認されたため、成立年代が大幅に遡ることになった[牧野 1990J 。それに先立つ史料としては、建久 8 年 (1197) に成立したとされる『多武峯略記』があり、その内容は取捨選択されて『多武峯縁起』に受け継がれている。『多武峯略記』には先行史料からの引用文を示しており、それが鎌足墓阿威山説を記す最も古い史料となる」
 
「以上みてきたように、文献史料をもとにする考察からしても、阿武山古墳が鎌足墓であることは、ほぽ否定されるものと思われる。」
 
 


 
 
 
◆そもそもなぜ改葬後の古墳に遺体も遺品も残されているのか?に気づかないと

摂津三嶋に別業を持っていたと書かれた人物は鎌足だけではない。軽皇子も三嶋に別業を持っていた。

今回の塼の類似が、阿武山=鎌足墓と決定するに充分な考古資料かはまだだと言うしかない。
なぜなら瓦や塼には、時代ごとにブームがある装飾品だからである。
摂津の窯では、この渦巻き模様が流行っていて、たまたま同じ摂津の阿武山古墳と東奈良遺跡の塼が同時期のものだから同じ窯の同じ職人によってとしても、なんら不都合はない。大量生産できる塼の模様が一致したからといって、奈良の多武峰への改葬が不比等によって行われたので、多武峰(談山神社)周辺からこの塼が出れば、阿武山鎌足墓説はようやく確実なものになるのである。
 
 
 
●東奈良遺跡
東奈良遺跡(ひがしならいせき)は、大阪府茨木市の南部、阪急南茨木駅から東側一帯にある、弥生時代の大規模環濠集落の遺跡。1973年、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300mに、出土品を所蔵・展示した市立文化財資料館がある。

(この付近は「沢良宜(さわらぎ)」と呼ばれ、主な神社に「佐和良義神社」があり、迦具土神がまつられている。 カグは銅の古語であり、サワラギもサワラ(銅器)ギ(邑)となることから、この一帯が銅製品の加工と関係が深かったことがうかがい知れる。)
 
 

出土した銅鐸鋳型

この集落が、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であり、弥生時代の日本の数多くの「クニ」の中でも、各地に銅鐸を配布することができるほど政治的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。

 大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地とされるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺である奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜だったとの説がある。

大阪府高槻市土室町(はむろちょう)上土室(かみはむろ)には土師氏の釜跡新池埴輪窯が残されているが、ここで焼かれたのは今城塚や大田茶臼山などの継体大王時代の埴輪ではないかと思われ、鎌足とは時代がかなりかけ離れてしまう。
 

新池埴輪窯
 
 
 
今回の塼がどこの窯で焼かれたかが重要である。東奈良は広域な集落遺跡ゆえに、同じ塼がほかにも見つかっておかしくないだろう。それらがどこで焼かれたか、つまりそれが鎌足の改葬墓がある奈良、あるいは居宅のあった山科や将軍塚付近ででも見つかったり、焼かれたことが分かれば面白くなる。
 
 

これだけでは阿武山鎌足古墳説は決められない。

摂津三嶋地域はこれまでに筆者も三度訪問しているが、春日神社などの痕跡は、藤原氏が奈良春日山に大社を建てるために在地春日氏を同族化したことに由来して、あとづけで建てられたものという考え方もできるのである。そして『日本書記』の三嶋別業記事もそうだが、鎌足と天智の乙巳の変すらもなかった可能性もあるのである。これらの一連の記事は、軽皇子つまり孝徳大王(天智の叔父)の三島別業(高槻市古曽部町説もあり)であった可能性はないか?

阿武山古墳(あぶやまこふん)は、大阪府茨木市と高槻市の境にある阿武山(標高281.1m)の山腹にある。阿武山は安威川と芥川の間に立つ丘陵で、周囲からも良く見え、なおかつ山頂から大阪平野のほぼ全部を見渡すことのできる場所である。この古墳は「貴人の墓」という別名でも知られ、被葬者は藤原鎌足説があるなど、高貴な人物であったことは間違いない。とWikiは言う。

そしてこの発見は大阪朝日新聞のスクープで知られるところとなり、「貴人の墓」として反響を呼び延べ2万人に達する大勢の見物人が押し寄せた。
当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある。(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた。)とも書いている。とりあえず朝日が最初に騒ぎ立てたのはちょっと気になる。
 
「1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると被葬者は最上位クラスの人物であったことは間違いない。
 
これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり[1]、それを授けられた人物は、史上では百済王子・余豊璋を除けば大織冠(授受者は)鎌足しかいないことから、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいないと報道された。
 
しかし被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂(内麻呂)をあげる説もあり、阿武山古墳が鎌足の墓所だとはいまだ断定できない。」同じくWiki阿武山古墳
 

阿武山が鎌足の最初の墓であったという背景は、
●まずこの安威地名の藤原氏資料文献との一致
●大織冠のX写真発見
●その後、この冠から赤い繊維が見つかり、それは確かに大織冠に貼られる布の色だった
●被葬者の髪の毛から、当時は身分の高いものしか使えない高価な砒素成分が検出
●そして記録の三島別業での隠棲記事と、すぐそばに最初密会した軽の別業があること

などなどによって主に文献史学の直木孝次郎が間違いないと言われたのが始まりである。しかし一時的に隠棲した別業の近くに墓を造るのも奇妙ではある。
 
『日本書記』も「多武峰略紀」も権威、直木も権威、考古学資料もはでで明快だったから、全員が引き込まれ、一時は間違いないとなっていった。しかしその後の調査では上記の記事のように、「ありえない」のではないかへと向かうこととなる。そこへ今回の塼。
 
それよりも筆者はこの塼のデザインである渦巻きに眼がいった。
長寿の秘薬と信じ込まれていた砒素を服用した阿武山の被葬者ならばこそ、永遠の渦巻きも手に入れたのだろう。しかし砒素は当然少量なら薬品にもなろうが、なにしろ猛毒。常用すれば死をはやめてしまうもの。
 
この阿武山に残された金糸をまとった貴人の遺骨がわからない。不比等が多武峰に改葬したのなら、なぜ遺骨がそっくりそのまま古墳に残されているのかという素朴な疑問である。しかも大職冠やヒスイの玉枕のような貴重な遺品もそのままにしておくはずがないだろう?そう考えると、どうも一連の『日本書記』や藤原氏自身の伝記である「多武峰」記録は、わざわざ書き残された感が強くなった。

また被葬者は肋骨が三本欠損しており、これは記録にある鎌足死の五ヶ月前に狩猟に出かけたとあるのが原因の落馬事故であろうという説もあり、いよいよ「阿武山は鎌足」を押し上げたことがある。略記の記事には「墓は安威の阿威山にある」とあって、阿武山と一致していない。もちろん阿威から阿武へのその後の変化や、誤った地名の伝承が起きたとしてもおかしくはないのだが。

阿武地名については以前分析した。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56499708.html
 

それはアラビア語の花崗岩だとしてある。
その後、高槻市の阿武山古墳石室の解説に、
「石室は花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました」

というのを発見。やはり花崗岩を切り出してきて運び上げたので、そのときから阿威山を阿武山と変更したのではないかと思えたものである。
 
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さて、今回の発見は鎌足墓阿武山説をどう動かせるのか、興味津々。
またまた『日本書記』などの記録の大々的な捏造か?不比等の画策のひとつだったか?

そういう気がしてきた。鎌足と天智の存在を疑う。

天智天皇陵がわざわざ藤原京の真北に作られるのは、『日本書記』編纂の後である。ここにも不比等の意図が感じ取れる。つまり不比等は天智を正統な天子としたのである。だから阿武山が奈良から見て北西にあるのもあまりに意図的に見えてしまうのだ。もしや阿武山と言う孝徳あたりの貴人の墓を親の墓に仕立て上げたのではないか?

これらもやはりアマテラス同様、不比等の後付に現代のわれわれが踊らされているような気がしてくる、今日この頃である。
 
 
 
 
 
 

 
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