前方後円墳・・・
初期、石室は墳頂に掘られる。これが竪穴式石室で、大陸的様式に類似し、その観念には、族長の霊魂をできるだけ祖霊のいる天空に近づけようとする様式である。
 
 
ところが5中盤頃から石室は横穴式へとさまがわりする。
それまで前方後円墳の後円部頂上の密閉された石槨内に置かれた組み合わせ式石棺は、古墳底辺に最初に石室と羨道が作られ、その上に盛り土されるようになった。
 
 
しかも、横穴式石室のレイアウトは、後円部に限らず、前方部にも、置かれ、しかもそれぞれの中央でもなく浅い部分に、さらに羨道は斜めに置かれたり、まったく中央や墳頂・・・つまり天神地祇の思想を無視して置かれるようになった。
 
 
 
理由のひとつに九州・朝鮮的家族追葬があるが、それはソフトの一面の答えに過ぎず、主観性に留まる。もし祖霊が降臨し、次の首長に交接するのであれば、墳頂中央に死者が置かれ続けていなければならない。けれど九州でも近畿でも、古墳時代中盤以降、そうなる。
 
 
ところが九州では特にだが、横穴式石室には癖邪の装飾がどんどん描かれはじめ、死者の「祖霊蘇るべき肉体」の魔物による腐食を護ろうとしている。近畿ではそれまで中心だった頂上の竪穴石槨という密閉空間に腐食防腐剤の水銀塗布が終了し、横穴石室に塗布、長大な割竹式木棺から石棺へと流れが変わり、広い空間は追可能な広さを持つようになる。つまり中期とは個人葬から家族・世襲葬の時代である。
 
 
初期前方後円墳には視る方向があった。それは初期古墳の裏側は二段式、表側は三段式盛り土で知ることができる。最初、前方後円墳は横から見るものだったわけである。
 
 
 
同時に、横穴石室の広い空間は、多大な副葬品の投入を可能にした。最初、石室は羨道のいきつくところに両袖式という、ちょうどブリテン島ケルトのニューグレンジの斧型石室そっくりのT字型で、やがて片袖型になる。
 
 
 
 
これらは最初、死者の再生祈願の場だった古墳に、バリエーションを求めるようになったことを示している。死者そのものが再生しないと認識され、祖霊が降臨して新たな誕生者=正嫡へと乗り移り世襲されるという、イデオロギーの更新を証明している。
 
 

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