ここまで、邪馬台国吉備説・ヤマト狗奴国説の整合性を解説してきた。確かに、こう考えてみると、これまでの多くの非整合だったものがつながっていくように感じられた。
 
しかし、吉備説のあるサイトには、邪馬台国の謎を説こうという会合では、雰囲気としてまだまだ吉備説には、ファンが「夢物語」「非現実的」だと考えているようだという実感が述べられている。それは当然である。これまで邪馬台国がどこかに関してはヤマト説と筑紫説がその大多数を占めてきた長い歴史がある。そこへいきなり岡山という近畿ではない、瀬戸内地方の、一般的地方色の知識でもあまり全国的に知られていない・・・せいぜい桃太郎・マスカットの産地・・・岡山が登場したのだから、認知度が低いのは当たり前なのである。しかし、ここまで考古学から考察し、さらに弥生時代東西の社会イデオロギー行動学から考察してみると、一気にすべての謎がつながってゆくのを諸氏も「なるほどそうかも」と感じられたのではなかろうか?少なくとも筆者は、吉備を邪馬台国にし、ヤマトを逆転の発想で狗奴国とするこの説は、これまでのどの説よりも説得力を持っていると感じたので、紹介してきた。もちろん、この着想はこれまでまったく、ほかの吉備説を読まないで独自に「これしかないのでは?」とたどり着いた筆者独自の到達点である。
 
 
さて、するとどうしても納得できないある一点に気がついた。
 
なぜ、北部九州、筑紫には吉備邪馬台国連合体の祭祀の証である吉備型特殊器台・特殊壷が出てこないのだろう?
 
 
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『魏志』倭人伝には伊都国に一大率を置くと書いてあるではないか。
 
「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。 」
 
「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。」
 
 
これを見る限り、一大率という監視機関は伊都国にあったと考えられ、少なくとも伊都国のあった範囲からは、弧帯文は無理としても、特殊器台・特殊壷の破片くらい出てきてもおかしくないはず。ところがない。
 
 
それでは特殊器台が持つ弧文という、これまた吉備発祥の絵柄だけでも出てこないか?今のところこれもまったく出土例がなし。
 
 

楯築の弧帯文石の弧文
 
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纏向石塚古墳の弧文とゴホウラガイ断面の合致
実は弧文の大本は九州の縄文人が宝としたゴホウラガイからだと橋口説は言う
 
 
 
 
 
 
弧帯文から弧文、直弧文への変遷図
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吉備様式遺物の出土地一覧をもう一度確認してみよう。
 
 
●弥生時代
岡山県倉敷市矢部   楯築遺跡2後半~3前半 弧帯文石二組・立坂型特殊器台
島根県出雲市     西谷3号墳丘墓(2世紀末~3初頭) 立坂型特殊器台
奈良県磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡(2~3前)      立坂型特殊器台
大阪府八尾市     瓜生堂(東郷・小阪合・萱振・中田など)遺跡 向木見型特殊器台片
岡山県総社市     宮山遺跡弥生墳丘墓群(3前) 立坂型・宮山型特殊器台 
岡山県岡山市     矢藤治山弥生墳丘墓(3中・前方後円墳か?) 宮山型特殊器台
岡山県総社市     立坂弥生墳丘墓(同上3中)      立坂型特殊器台 
奈良県桜井市     纏向墳丘墓群(石塚・矢塚3中) 宮山型・都月型特殊器台など 
 

●古墳時代
愛媛県今治市大西町  妙見山1号墳 3後~4初  伊予型特殊器台
香川県高松市西春日町 鶴尾神社4号墳(3後~4?)
岡山県岡山市     都月(坂)1号墳(3中)前方後円墳纏向古墳群同時代 都月型円筒埴輪
奈良市桜井町巻向    箸墓古墳(3中)  後円部墳頂付近から宮山型特殊器台・特殊壷。特殊器台型埴輪。特殊器台脚部が「ハ」の字形で吉備では見られない様式。
天理市中山町     中山大塚古墳(3後)      宮山型特殊器台
島根県        仲仙寺 9 号墓
兵庫県        養久山 5 号墓・権現山51号墳 3中 
兵庫県赤穂市     有年原田中墳丘墓(うねはらたなか)千種川域 弥生終末期
 1号墓:円形周溝墓 陸橋部あり、前方部の祖形か。
 2号墓:円形周溝墓
 特殊器台、特殊壺 文様は吉備とは異なり独自性あり
 

大阪府茨木市    紫金山古墳(4前半)     貝輪3ヶに直弧文
岡山県岡山市高松町 千足古墳(5前半?)     石室線刻及び埴輪直弧文
   同       造山古墳(5前半)     石棺(阿蘇凝灰岩灰色石製)線刻
橿原市葛本町     弁天塚古墳  10以上の宮山型特殊器台破片脚部ハの字型
天理市中山町     西殿塚古墳   宮山型特殊器台脚部ハの字型
奈良県御所市室   室宮山古墳(室大墓・4後~5前)楯(靫)形埴輪直弧文・特殊器台
 
 
 
奈良県御所市極楽寺  極楽寺ヒビキ遺跡(5前)     家型埴輪柱直弧文
奈良県広陵町     新山古墳大塚陵墓参考地(5前) 直弧文鏡3枚
大阪府柏原市玉手   安福寺境内横穴群(5末~6初?) 割竹型石棺線刻直弧文
福岡県八女郡広川町  石人山古墳(5前)       家型石棺蓋陽刻直弧文
※滋賀県守山市?   月優部遺跡(?)       鹿角製装具直弧文
福井市足羽上町    足羽山山頂古墳(5後)継体天皇像下古墳 船形石棺直弧文
熊本県天草郡大矢野町 長砂連古墳(5中)       横穴式石室直弧文 
熊本県不知火町    国越古墳(5中)        家型石棺直弧文
    同       鴨籠古墳(5後)        家型石棺直弧文
福岡県久留米市    浦山古墳(5後)        石棺内部直弧文
熊本県上益城郡嘉島町 井寺古墳(5末)        横穴式石室直弧文
大分県竹田市長湯   長湯横穴墓群(6前)      鹿角刀剣装具鞘直弧文
 
 
 
行をあけた部分は特殊器台が衰退して、代わって直弧文が九州でも出現しはじめる古墳時代5世紀以後の、切り替わり時期を示しておいた。
 
だが直弧文は、ベースは弧文であるが、そこに直線の対角線のように×がされる絵柄で、吉備・葛城氏族が畿内で衰退、ないしは滅亡していった時間枠の中の4~5世紀後半の古墳が持っており、弥生時代の絵柄ではない。特に卑弥呼の時代にはまだ存在しない、弧文の中では特殊なデザインである。その×の意味は今後、さらに分析されねばなるまいが、そお多くが畿内や吉備の中心地というよりも、やや離れた地域に与えられ、次第に遠隔地へと向かう。中心地では直弧文が消えてゆくのである。だから邪馬台国時代の絵柄とは、なんらかの異なる意味合いが持たされたマークと考えられる。
 
 
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九州で直弧文が登場した理由は、有明海を中心とした葦北国造氏族が吉備出身だったからにほかならず、つまり多くが九州独特の装飾は持たず、代わりに直弧文を持つと分類できることから、中央ができはじめて、そこから吉備系の官吏が送り込まれたことを意味すると思われる。それならば地方が中央に集約されても独自の墓制を存続したと定義した近藤学説に合致し、長く使われても不思議ではない。
 
 
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前方後円墳は確かに全国に採用されたが、その内部は地方によって勝手気ままな構造で存続したことは間違いがない。それは5世紀までの中央の監視体制がゆるいことを示すのである。スタイルを強制できなかったということになる。
 
 
 
 
さて、特殊器台や弧文が、北部九州の弥生後期から古墳前期についに登場しないということは、いったい、どういうことになるだろう?
 
では魏志の言う、女王国の監視体制や連立体制は、本当に筑紫に及んでいたのかという疑問を生むわけである。
 
筑紫の伊都国は、つまり迎賓港として、「共有」されていたのか、となってしまう。狗奴国もここから使者を送っていたのか・・・と。
 
ということは筑紫の各国の中で、魏志の書いた31ヶ国の全部が本当に女王に従う国々だったかすら疑わしくならないか?それはただ魏志がそう書いただけの希望的観測だったのか。
 
「 始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。
 

 又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。
 

 又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
 

 東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。」
 
そう言われれば、確かにどの国も官名がばらばらである。統一連帯国家なら、官はみなおなじ名前になるはずである。
 
その程度の統一もできないほどの連合だったということだ。どっちに転ぶかわからない明日は敵かもしれない集団である。これはひとつの国家とは言えない。烏合の衆が寄り集まっているだけである。全部が全部、もしかすると明日は狗奴国だ。
 
つまり魏志は、そうしたヒエラルキーが当たり前の大陸国家観念で書いてあるということなのだ。筑紫はその全体が女王に従っていたわけではない、むしろ従ったというより、遅れた瀬戸内集団も快く受け入れてやっていた、その地域とは筑紫の中でも伊都国、奴国といった玄界灘沿岸地だけだったのではなかろうか?しかも、その中でさえ、思いは二分されていたとも思える。
 
 
三国志そのものは魏のあとの西晋の時代に書かれたが、実はその時代、呉はまだ絶滅していない。呉が滅びたのは五胡十六国時代の東晋によってである。だからヤマトも筑紫もまだまだ呉から影響を受けていたわけであり、神獣鏡のような神仙思想の鏡がいつまでも重要視なり得たわけだろう。要するに邪馬台国も狗奴国もない、日本全体がそもそも呉国シンパだったのである。親呉派がしぶしぶ勝ったほうについた、そういう時代なのである。その理由は簡単だ。倭人がそこから来たからである。長江は倭人の故郷だからだ。
 
 
筑紫の主流派イデオロギーでは、ヤマトがひとつになったとしても、従ってはいなかったと見てよいだろう。そういう独自路線はやはり先進地ヒエラルキー社会だったからこそなのであり、ヤマトはいつまでも筑紫に一目置かねばならず、それが爆発してしまうのが6世紀の磐井戦争だったということになろう。だから磐井の戦いはむしろヤマトの罠にはまった筑紫、だまし討ちしたヤマトでとらえるべきだろう。それほど博多湾は重要な港。半島大陸への最短の位置にあり、つまりまるで出雲の国譲りの焼き直しが磐井の敗北だった。
 
 
 
中央集権とか、ヤマト王権などと言っても結局7世紀あたりまで、まだヤマト王権は弱小のいなか政権である。統一国家などとヤマト学者は言いたがるが、それが認められたのは聖徳太子よりもずっとあと。大和朝廷などは所詮、狭い盆地の中の夢想の首都である。よくもまあ千年も存続したものだ。それは井の中のかわずのまま世界から謎の国だったからにほかならない。なんと幕末まで世界に打って出られなかった、小島の小国なのである。朝廷でも国家でもなかった。
 
 
 
 
皇紀4000年?
たったの四千年?
 
 
なのである。
 
 
 
ばっかじゃないの?
 
 
縄文16000年の歴史が続く国が日本。歴史が違う。まだヘテラルキーのままだ。だから集団的自衛権ごときで怯えてしまうんだよ。
 
 
 
 

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