考古学の発掘を一切信じないと思う人は、読まなくてけっこうです。
 
物事を「一事が万事」で決め付けるのは幼稚な考え方です。
 
 
 
 

 「この弥生時代末期におけるわが国最大の楯築墳丘墓に葬られた吉備の王墓に相応しい墓壙が、1976 年から岡山大学考古学研究室の故近藤義郎教授によって発掘された。その結果、全く前例のない 30?強の、目の覚めるような美しい水銀朱が棺に敷き詰められていた。
 
 そしてその場所から、ヒスイの勾玉と瑪瑙の管玉や 27 個の碧玉からなる首飾り、長さ 47?の鉄剣、数百の小さなガラスや管玉製首飾りも出土した。円礫推上部からは、王位継承儀式と関わる高さ 1.13 mほどの大型特殊器台の破片が出土した。また北東突出部からは壷形土器も出土した。
 
 古墳時代になると激しい階層分化の中で、富と権力の集積が起こるが、その直前の弥生時代 末期に、これ程の副葬品が出土すること自体異例のことである。そのことから、古墳時代前夜においてその墳墓の主であり、古代吉備国の権力者としての存在は格別なものであったことが十分想像される。
 
 その他、地上の謎の施帯文石だけではなく、それと良く似た小振りの謎に充ち満ちた※施帯文石が墳墓の上の円礫堆下部から出土した。何らかの葬送儀礼を経たのか、後世の人の他の儀式によるものか分からないが、100 個以上の破片に砕かれた形で出土した。この地上と地下の2つの施帯文石は当然深い関係があると思われる。セットと考えられること等からも双方の施帯文石が弥生末期のものであるとの考察は、殆ど揺るがないのである。
 
 ただこの施帯文石の時代限定が可能ではあっても、空間的には全国何処にも類例がないので、施帯文石の性格の解明は難しい。
 
 施帯文石の存在は目下のところ、この2点と楯築遺跡から直線距離で北西 700 mに存在する鯉喰(こいくい)神社境内で表面採取された別個体である握り拳ほどの施帯文石の破片が1個あるのみである。つまりこの上なく不思議は存在し続けているものなのである。
 
 このことから、この施帯文石研究は今もって足踏み状態であるともいえる。日本に国を作ろうとした矢先の弥生人が、何の目的でこの施帯文石を作ろうとしたのかとか、文様が何を意味しているのかは、弥生時代から遙か隔絶した今日の人間が今現在の揃っているデータで考えても核心にはなかなか近づけていない。」
 
 
なお鯉喰神社遺跡が弥生墳丘墓とわかったのは最近のことなので、「鯉喰神社墳丘墓」としてはほとんど検索でヒットしません。あしからず。「鯉喰神社遺跡 墳丘墓」でヒットします。
 
 
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特殊器台・特殊壷分布図(松木武彦2009)
 
 
 

鯉喰神社遺跡の墳丘墓は卑弥呼の時代に合致する?
(たまたま見つけた、筆者と同じ意見の若井正和の著書記事。この本は筆者未読)

 
吉備の鯉喰神社に卑弥呼は眠る
「吉備の邪馬台国と大和の狗奴国」若井正和著 (歴研)
 邪馬台国吉備説を大胆に述べている。著者は掛川市在住で掛川市立総合病院副医務局長・神経内科診療部長『歴史研究』に「邪馬台国吉備説の提唱」ほかを書かれている。
 
 楯築遺跡は弥生式墳丘墓後期のもので、発掘した近藤義郎教授は出土した特殊器台と特殊壺を重要視していた。古代祭祀研究家の薬師寺慎一先生も楯築遺跡で行われたであろう祭祀を重要視して、魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」が行ったとみられる祭祀がここ吉備の地、楯築を中心とする地域で行われただろうと推論している。
 
 著者の若井氏は魏志倭人伝における「邪馬台国と卑弥呼」の記述をさまざまに検証しながら、大和説、九州説共に不備な内容が多く、邪馬台国を吉備と比定してこそ、すべてがつじつまが合ってくると、詳しく論述している。
 「やまと」とは何か?単なる地名ではない。若井氏の論によると魏志倭人伝に出てくる「狗奴国」を当時、大和(奈良盆地を中心とした地)の王国とし、邪馬台国は吉備にあって倭国をまとめた王権、女王国とすることで、古事記、日本書紀の記述と合わせ、すべての論理がつながるという。
 
 結論、卑弥呼の墓は楯築遺跡に近い、「桃太郎伝説」にも登場する「鯉喰神社」であるとする。

 「鯉喰神社」は楯築遺跡にほど近く、明治に楯築遺跡にあった楯築神社を合祀している。神社は楯築遺跡に匹敵する弥生式墳丘墓に建てられている。

 造山古墳応神天皇陵説と合わせ、邪馬台国吉備説は、古代における吉備の位置づけが、単にこれまで言われてきたような大和に対抗する王国にとどまらず、「倭国」の中心地であった可能性を示唆している。

これらが※秦氏や賀陽族など渡来の集団と、その技術や文化とのかかわりを見ていけば、古代吉備の真実の姿が浮かび上がってくるようである。

 新羅の王子と言われた天日矛とのかかわりも注目に値する。
 大和王権で祭祀をつかさどる同時に鉄の鋳造技術を持っていた物部一族との関係も見逃せない。
このあたりさらに整理してみることが必要。
それにしてもこの若井正一氏の「邪馬台国吉備説」はかなり説得力のあるもの。古代吉備王国の真相に迫る。」
http://kibinokojima.blogspot.jp/2011/03/blog-post.html

(※文中吉備の「秦氏」とは4世紀秦原廃寺(総社市秦)を氏寺とした渡来氏族。同市秦にある一丁𡉕(いっちょうぐろ)1号墳・4前は秦氏の墓とされるhttp://kibinokojima.blogspot.jp/2011_09_01_archive.html)
 
 
 


 
 
Kawakatu解説
 
 
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吉備中山周辺の遺跡
 
 
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鯉喰神社墳丘墓
 
 
 
この鯉喰神社墳丘墓からは弧帯文石のかけらが出ている(全国に楯築の2個とあわせて3個しかない)。楯築遺跡直後時代の墓である。楯築墳丘墓は弥生時代最大の70Mの大きさで、近畿学説が纏向を古墳時代の始まりとする近畿中心主義的な偏った考え方を無視するならば、実は古墳時代とはすでに2世紀の吉備で始まっていたとしても一向にかまわないわけである。

  楯築墳丘墓(2 世紀末) 立坂型
  鯉喰神社弥生墳丘墓(3世紀初~中ごろ) 向木見型

編年は出土した特殊器台の様式からなされている。
立坂型と向木見型特殊器台は吉備だけで出土し、ほかの地域には見られない原初的器台である。

従って纏向の古墳群より鯉喰のほうが早いか、同時代だと言える。
纏向石塚古墳(弥生墳丘墓とする意見もある)は3世紀初頭とされ、箸墓古墳は3世紀中ごろとされているので、鯉喰は箸墓より古く、石塚と同時代の墓になる。

纏向古墳群の中で石塚~箸墓までは、まだ前方後円墳の試作段階のものだとする意見はいまだに根強い。だから近畿学説が言う「古墳時代」の始まりを、かならずしも纏向からとする必要性はまったくなくなったと言える。箸墓古墳を前方後円墳の第一完成品と決め付けるには、まず箸墓内部調査がなされねば言えるはずがない。しかし宮内庁はそれを拒み続け、先ごろようやく立ち入り調査だけが許可されたばかり。これでは考古学的な一級資料になりえない。

マスコミが言い立て過ぎる結果、まるで古墳時代とは箸墓から始まるかのような近畿学派の「大本営発表」が定着しつつあるようだが、全国的な視野では、まだまだ決定は不完全である。
 
 
 
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吉備国の古墳
西部の足守川流域の赤丸が吉備中山地域である
 
 
 
◆卑弥呼の墓候補地一覧
可能性では、やはり吉備楯築・出雲西谷・鯉喰ときて纏向石塚・箸墓・黒塚という順番が順当である。すると卑弥呼の死んだ248~9年(3世紀中ごろ)にジャストフィットする墳丘墓は、楯築・西谷のすぐあとの世代のプレ古墳で、
 
1 2C末~3C初期 吉備鯉喰神社墳丘墓(倉敷市矢部) 70m 弧帯文石
2 2C末-3C前半  纒向石塚墳丘墓 96m 弧文円板、朱塗鶏形木製品
         吉備伊予部山弥生墳丘墓(総社市下原)
         吉備鋳物師谷(いぶしだに)二号弥生墳丘墓(総社市清音)
3 3C中葉以前   纒向矢塚墳丘墓 96m 
4 3C中葉以前   纒向勝山墳丘墓 110m 木製の刀剣把手、団扇 
5 3C中葉以前  東田(ひがいだ)大塚墳丘墓 (96→)110m 
6 3C中葉以前  ホケノ山古墳 80m  銅鏃60、鉄鏃60、素環頭大刀、刀剣類、画文帯神獣鏡3
7 3C中葉-後半 箸墓古墳 278m 特殊器台形埴輪片、壺形埴輪片、有段口縁の底部穿孔壺形土器
 
と順番付けられると考える。この中のどれかが卑弥呼の墓である可能性が高い。ただし北部九州説からは平原遺跡の女性巫女王墳丘墓に、あとから卑弥呼は「故郷に帰る形で」埋葬されたという意見も最近出ている。しかし平原は方形周溝墓に近い土こう墓であまり大きくはなく、ヒエラルキー的な見上げ型でもない。北部九州の弥生時代は出土品からは間違いなく先進大陸的なヒエラルキー社会だったことは明白なれど、なぜか吉備や纏向のような見上げるような高い墓が見つからない。これもひとつの不思議であるが、高い造形物よりも大きい威信財の方に嗜好が向いていたようである。ヘテラルキー社会だった吉備や畿内がまず高さに固執したのは、要するに外見から大陸や筑紫のヒエラルキー社会に追いつきたい願望の凝縮を見る思いがする。筑紫と吉備・畿内では先進技術の格差は200年ばかりあったからだ。
 

ここで魏志倭人伝にある「大いに塚を作る。径百歩」の記事が問題になるだろう。
当時の中国の距離感や長短の計測観念はアバウトであまり当てにはできない。物事や長さを大げさに言うのが漢文史書、軍記の特性でもある。卑弥呼が「以って死す」あとに墓が造られ始めることは間違いなかろう。日の巫女として、彼女は責任をとった形で自害したとすれば、突然の出来事であるし、当時の倭人にはまだ、中国のように死の前から墓を作る風習がなかった考えれば、卑弥呼の死んだ240年代末期に大きな「見上げる様式=仰揚型」の盛り土墓が造られたのだろう。そしてそのような墓はそれまでなかったものと捉えられる。するとこれに見合う弥生墳丘墓ではやはり楯築がふさわしいのだが、編年が早すぎるとなる。箸墓では30年近く遅くなる。さて、あなたならどうする?である。
 
 
 
 
 
 
 
 

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