●◆吉備系弧帯文・直弧文を持つ遺跡・遺物一覧(年代順)
(弧帯文と直弧文にはあきらかな帯状弧文という類似が見られるが、纏向弧文二点については帯状よりも唐草状と判断してここでは除外した)
 
●縄文時代後期(約3000年前)
新潟県村上市山北町    上山遺跡出土      巻貝形土製品
宮城県伊具郡丸森町    ?遺跡出土       巻貝形?
岩手県宮古市近内     中村遺跡出土      巻貝形土器
 
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(※考古学でこれらを直弧文ないしは弧帯文と呼ぶかどうかは未だ未決。しかしあきらかに同じ模様である。このルーツが南海の貝を東北に持ち込んだ九州縄文人か、あるいは東北人のオリジナルかも不明。いずれにせよ弧帯文の源流に南北縄文文化の死生観が関わることだけわかっていただければよい。 Kawakatu)
 
 
 
●弥生時代
岡山県倉敷市矢部   楯築遺跡2後半~3前半 弧帯文石二組・立坂型特殊器台
島根県出雲市     西谷3号墳丘墓(2世紀末~3初頭) 立坂型特殊器台
奈良県磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡(2~3前)      立坂型特殊器台
大阪府八尾市     瓜生堂遺跡(東郷・小阪合・萱振・中田など)遺跡 向木見型特殊器台片
岡山県総社市     宮山遺跡弥生墳丘墓群(3前) 立坂型・宮山型特殊器台 
岡山県岡山市     矢藤治山弥生墳丘墓(3中・前方後円墳か?) 宮山型特殊器台
岡山県総社市     立坂弥生墳丘墓(同上3中)      立坂型特殊器台 
奈良県桜井市     纏向墳丘墓群(石塚・矢塚3中) 宮山型・都月型特殊器台など 
 
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福井市足羽山山頂古墳の直弧文のある靫埴輪
 
 
 
●古墳時代
愛媛県今治市大西町    妙見山1号墳 3後~4初  伊予型特殊器台
香川県高松市西春日町   鶴尾神社4号墳(3後~4?)
岡山県岡山市     都月(坂)1号墳(3中)前方後円墳纏向古墳群同時代 都月型円筒埴輪
奈良市桜井町巻向    箸墓古墳(3中)  後円部墳頂付近から宮山型特殊器台・特殊壷。特殊器台型埴輪。特殊器台脚部が「ハ」の字形で吉備では見られない様式。
天理市中山町     中山大塚古墳(3後)      宮山型特殊器台
島根県        仲仙寺 9 号墓
兵庫県        養久山 5 号墓・権現山51号墳 3中 
兵庫県赤穂市     有年原田中墳丘墓(うねはらたなか)千種川域 弥生終末期
 1号墓:円形周溝墓 陸橋部あり、前方部の祖形か。
 2号墓:円形周溝墓
 特殊器台、特殊壺 文様は吉備とは異なり独自性あり
大阪府茨木市     紫金山古墳(4前半)     貝輪3ヶに直弧文
岡山県岡山市高松町  千足古墳(5前半?)     石室線刻及び埴輪直弧文
  同       造山古墳(5前半)     石棺(阿蘇凝灰岩灰色石製)線刻
橿原市葛本町     弁天塚古墳  10以上の宮山型特殊器台破片脚部ハの字型
天理市中山町      西殿塚古墳   宮山型特殊器台脚部ハの字型
奈良県御所市室    室宮山古墳(室大墓・4後~5前)楯(靫)形埴輪直弧文・特殊器台
奈良県御所市極楽寺  極楽寺ヒビキ遺跡(5前)     家型埴輪柱直弧文
奈良県広陵町     新山古墳大塚陵墓参考地(5前) 直弧文鏡3枚
大阪府柏原市玉手   安福寺境内横穴群(5末~6初?) 割竹型石棺線刻直弧文
福岡県八女郡広川町  石人山古墳(5前)       家型石棺蓋陽刻直弧文
※滋賀県守山市?   月優部遺跡(?)       鹿角製装具直弧文
福井市足羽上町    足羽山山頂古墳(5後)(継体天皇像下古墳)船形石棺 
熊本県天草郡大矢野町 長砂連古墳(5中)       横穴式石室直弧文 
熊本県不知火町    国越古墳(5中)        家型石棺直弧文
   同       鴨籠古墳(5後)        家型石棺直弧文
福岡県久留米市    浦山古墳(5後)        石棺内部直弧文
熊本県上益城郡嘉島町 井寺古墳(5末)        横穴式石室直弧文
大分県竹田市長湯   長湯横穴墓群(6前)      鹿角刀剣装具鞘直弧文
※滋賀県月優部遺跡について場所・世紀・現物画像など詳細をご存知の方は情報請う
 
ほかにあればご連絡ください。分布図作成しますので。
 
 
 

 
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上下ともに御所市極楽寺ヒビキ遺跡の直弧文
 

              特殊器台の弧帯文
       
 
 
◆特殊器台の発祥と歴史
 
 立坂(たちざか)型 (特殊器台前期2~3世紀前)
     ↓  ↓
 向木見(むこうぎみ)型 (特殊器台後期)
     ↓  ↓ 
    宮山型(終末型)
       ↓
    都月型円筒埴輪 
       ↓
   特殊器台型円筒埴輪 5世紀
 
 
 
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◆特殊器台前身の器台・つぼ型土器の出土地
大分県大分市 浜遺跡
山口県熊毛町 天王遺跡
山口県玖阿町 畑岡遺跡
愛媛県松山市上 土壇原(どたんばら)遺跡
愛媛県松山市小坂 釜の口遺跡
兵庫県赤穂市原 田中弥生墳丘墓
大阪府高槻市古曾部 芝谷遺跡
 
 

 
 
このように弧帯文は縄文後期から古墳時代最盛期に渡って各地に使われた「卑弥呼の時代の模様」である。
 
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また吉備型の土器は畿内で庄内式から布留式土器へと変遷したと考えられる。
 
 
特殊器台・特殊壺の出現は弥生時代中期以降で、後期に特に発達・普及するが、古墳時代前期5世紀に入ると衰退し円筒埴輪へ移行してついには埴輪に完全に変わった。この現象から特殊器台・特殊壺が、最古の前方後円墳はどれか、最古の前方後円墳はどこにあるか、を追求する有力な手がかりの一つになる。

同様に、吉備の造山・作山のような巨大古墳もその後は衰退し、吉備には100メートルを越える古墳も登場しなくなる。そして5世紀末になると、遺跡的に吉備ははっきりと衰亡してしまうのである。

一方、同じように近畿でも、ヤマト箸墓から西へ墓地は移動してゆき、馬見古墳群からついには大阪湾羽曳野丘陵へと巨大古墳が移り、5世紀末には吉備同様、近畿の古墳は100メートルクラスに縮小、中心地も淀川沿線攝津地域の今城塚へと様変わりした。
 
 

従って、吉備の繁栄は2~5末までであり、近畿の繁栄は3中の卑弥呼から~倭王の5末となって、まったく双方がリンクしていたと見ることができる。
 
また北部九州(有明海沿岸だけだが)で吉備氏族が地元を牛耳るのもやはり直弧文の時代終末期の5世紀末であり、一致することになる。つまりこの5末こそが吉備王族が倭王武によって滅ぼされたと記録が書く時代になる。と同時に畿内に出現した阿蘇凝灰岩石棺の氏族も4世紀には菊池川の火中君(在地豪族)から、5世紀の吉備系葦北国造の宇土の灰色石~ピンク石へと変遷し、それが吉備の繁栄した時代に合致。吉備が衰亡すると石は、物部氏が石を探して侵入していった讃岐~播磨竜山石へと変わるのである。物部氏が吉備と播磨の間にある揖保川へ切り込んで住まうことこそが、吉備を衰退させた直接の要因であろう。

倭王は、しかし考古学上の大古墳衰亡と合致して、倭王武前からその力をがっくりと落したと見られ、だからこそ宋へ朝貢せねば存続があやうかったと見ることが可能である。ちょうど今の北朝鮮が日本に歩み寄ってきたようなものだろう。国内でその統率が落ちてきたのは、吉備・葛城の「縄文王家」を滅ぼしたことで、資金源が枯渇したからだろう。武が上表文のような誇張した内容を宋王へ書き送ったのも、身の丈を越えた主張であり、それほど政局は逼塞していたからだと考えうる。
 
まさに雄略の墓(島泉丸山古墳高鷲丸山古墳」とも。宮内庁の比定間違いか?)は小さく、大和と河内のはざまでどっちつかずの場所にあり、変わって登場する清寧~顕宗~飯豊青天皇~武烈までのエピソードも政権交代を言い募ったあげくに摂津に継体大王が登場したのである。継体の担ぎ上げはかつての吉備・葛城勢力の巻き返し戦略か?物部氏と大伴氏の担ぎ出しに尾張が嫁を出す構造は、三輪王朝のあとの景行・ヤマトタケルの吉備王権エピソードと似たものを感じさせる。(もちろん物部氏が出雲・吉備・葛城連合を乗っ取った倭王そのものだった可能性もある。それは飛鳥時代分析に譲ろう)。
 
いずれにせよ阿蘇凝灰岩で見れば、継体今城塚・推古と竹田皇子・聖徳太子=蘇我氏・甲山の三尾氏・息長氏とは、ピンク石を使ってあるのだから吉備氏族に関係することは間違いあるまい。(阿蘇ピンクを再生の色と見るか、直弧文のように再生拒否の石と見るかで推古蘇我氏は熟考すべき)。
 
 
最後に、吉備からはじまる弧帯文の模様に×をする直弧文が登場した5世紀は、間違いなく吉備氏の衰亡期に当たるのである。

こうしたことから、史実である倭王武と、『日本書記』の雄略大王の合致は考古学的にも文献的にも見えたことと思う。そして『日本書記』が最初、雄略紀から書き始められたという森博達の分析ともよく合う。つまりそれ以前の歴史を『日本書記』作者たちはすでに忘れていたのであろう。

さて吉備の青銅器総覧を探している。特に九州型や讃岐型の銅剣、漢鏡・神獣鏡の分布について総花的資料を探している。
ざっと調べたところでは、以下の遺物が出ているようだが。
 
銅剣  1個 岡山市飽浦出土 弥生時代(前期)・前4~前2世紀 東京国立博物館
銅鐸  1個 岡山県兼基出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 岡山県立博物館
銅鏡 蕨手状渦文鏡 岡山市足守川加茂B遺跡出土
   吉備津彦裏山古墳 岡山・一宮  波文帯三神三獣  20.6
   備前車塚古墳 岡山・湯迫  波文帯六神四獣  25.0
   備前車塚古墳 岡山・湯迫  吾作二神六獣  22.2
   備前車塚古墳   獣文帯龍虎鏡 奈良・富雄丸山古墳と同氾
 
 
また、楯築のあと一キロほど北上した足守川沿線の遺跡群からは、あきらかに吉備勢力の衰退、あるいは東への主力移動が見て取れ、古墳も数十メートル級に縮小するが、このあたりには北部九州の装飾古墳が登場し始め、瀬戸内での吉備・畿内の力も落ちたことがわかる。これが6世紀の継体大王の琵琶湖~福井ルートの必要性となんらかの関係があったことも間違いあるまい。息長氏と安曇海人族の実際の活躍した時代が、ここから始まり記紀の神功以降の息長系譜へとつながるのだろう。つまり伝説の前倒しである。

邪馬台国で考えれば、2~3初頭の楯築70メートルの墳丘墓のあと、吉備には巨大な弥生墳丘墓は見られなくなるので、卑弥呼の時代に見合うような箸墓クラスの墓は発見できない。それがつまり吉備が出雲を滅ぼして以後、大和へ移動したことを裏付ける。とすると卑弥呼の塚が楯築にヒテイできるかどうあかであるし、また箸墓と楯築の間に築造されたヤマトの纏向石塚や矢塚、吉備の矢藤治山弥生墳丘墓あたりをもっと調査する必要があると感じている。
 
 

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