岡山県の重要な弥生遺跡
 
 
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◆楯築遺跡 Tatethuki-Iseki たてつき・いせき
 
 

 

岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の墳丘墓。楯築墳丘墓ともいう。双方中円墳である。古くは片岡山古墳と呼ばれていた。国の史跡。
王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E7%AF%89%E9%81%BA%E8%B7%A1
 
 

◆津島遺跡Thushima-Iseki つしま・いせき
岡山県岡山市北区いずみ町の岡山県総合グラウンドおよびその周辺にひろがる、弥生時代を中心とした集落遺跡。全国で初めて、弥生時代前期の集落と水田が隣接して発見されたことで学史上著名。集落を設けた微高地の周辺、湿地の間の3~5アールのごく狭い範囲に水田がつくられていた。イネの花粉、各種の水田雑草の種子や葉の存在から、水田土壌自身が残っていることも証明された。この水田と湿地との境には杭列、微高地との境には矢板の列によって区画してあったが、方形の区画は認められなかった。近年の調査では、上記の水田とは別に、畦畔で区画された弥生前期の水田も広範囲にわたって検出された。このことから、弥生前期の段階では2種類の水田が並存した可能性も考えられている。また、弥生時代後期の河川跡からは建物の部材などを含む木製品多数も見つかっている。
 
 
 
◆津寺遺跡(つでらいせき) 岡山市北区津寺(つでら
時期 弥生時代後期  
楯築の2世紀王都の次の世代の3世紀の拠点
縄文と弥生の交叉点
 加茂小学校の校舎建設に伴って、1987年10月から1988年8月にかけて調査を実施しました。津寺(加茂小)遺跡は弥生時代後期以降から中世までの住居跡が密集した集落遺跡です。
  上図の土偶は、顔面に入墨のような線刻を施していることから黥面(げいめん)土偶と呼ばれています。多量の土器に混じって、弥生時代後期の溝から出土しました。線刻は、目元から目尻にっかけて明確に表現されています。耳はありませんが、目、鼻、口ははっきり表現されています。黥面は土偶のほかに、土器、銅鐸、石棺など、色々なものに表されています。
  全国的に見て、それほど多く出土する遺物ではないものの、岡山県南部では比較的多く見つかっており、岡山市鹿田遺跡、倉敷市上東遺跡、総社市一倉遺跡などで、黥面を描いた土器が出土しています。
 

 
  よみがえる大王都】(153)鉄が支えた吉備王国                [2004年05月08日 大阪夕刊]   より
 児島湾に注ぐ足守(あしもり)川に面した津寺遺跡は、弥生時代後半から古墳時代初めにかけての大集落遺跡。
「纒向の時代」(西暦190-340年)と重なり、多くの竪穴建物や掘立柱建物の跡が見つかっている。
  発掘調査にあたったのは古代吉備文化財センター(岡山市)など。調査報告書によれば、遺跡中心部(中屋調査区)で見つかった竪穴住居跡からは鉄滓(てつさい)が出土した。
  また、すぐ近くの住居跡からも計24点の鉄片が見つかっている。調査区内では他に銅鏃・鉄鏃が計31点、鉄剣1点、鎌4点、やりがんな3点など計59点の鉄を中心にした製品も見つかっている。
  炉跡などは確認されていないものの、これらのことから、津寺遺跡内で鉄器の生産が行われていたと思われます。
新潟県糸魚川産ヒスイ製の 大珠(たいしゅ)が出土。古志との交流。
 
「男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。」「魏志倭人伝」
 
 

 
 
 

◆足守川加茂B遺跡 あしもりがわ・かもB(弥生時代後期)
岡山市足守川矢部
鹿・イノシシの卜骨痕跡のある肩甲骨8点出土。
 

 
 

◆加茂政所遺跡 かも・まどころ(弥生時代後期前葉)
円環型銅釧(どうくしろ)二個・分銅型土製品(ふんどうがた、分銅として使用したのではなく祭祀用の土偶、形代かたしろ)
 
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加茂政所遺跡出土分銅型土製品
 

その他
岡山市足守川近辺の弥生遺跡
立田遺跡
高松原古才遺跡
矢部南向遺跡
百聞川遺跡群
総社市
宮山遺跡(特殊器台・墳墓群)、一倉遺跡(小型家型土製品)、刑部遺跡
横寺遺跡(家型土製品)、鏡野町九番丁場遺跡 竪穴住居(弥生時代後期)
、総社市窪木薬師遺跡出土 絵画土器(弥生時代中期)、勝央町小中遺跡 弥生時代中・後期の集落など
 
 
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家型土製品
 
 
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文身のある人面土器
 
 
赤磐郡
門前池遺跡(岡山県赤磐郡山陽町)中期末(製鉄遺跡)
参考地熊山遺跡(高句麗式積み石木棺墓の後世の仏塔への応用か?経筒が石室にあったために7世紀の仏塔とされているが、大谷1号墳の類例が吉備にはある)
 
 


 
 
 

古墳時代には横穴式石室が早くから登場し、九州の装飾古墳、石床、屍床が登場。横穴式石室は「切石積み石」という畿内方式も7世紀初頭に登場する、そんな東西南北の縄文・弥生文化の集積地であり、さらに日本海や若狭湾との交流で、九州とは別の朝鮮文化も伝来した土地柄である。一言で言えば文化の混在地。

吉備は「北部九州遺物の東の果て、纏向土器群の西の果て」とよく言われる。東西の文化が弥生時代にいくつも入り混じった場所である。また日本海からは東北縄文の土製品や入墨をほどこされた土人形(倭人?縄文人?)や分銅型土製品のような土偶的な遺物も出てくる。
 

 
 
 
 


県内ではほかに銅矛(出所不明)、多数の分銅型土製品が出土している。

このように、吉備は博多湾のヒエラルキー社会と、近畿のヘテラルキー社会の交差する「瀬戸内の中心地」であると考えられ、瀬戸内交通の要所が児島湾であった。
 
ここから赤磐郡の吉井川では美作・鳥取から出石・丹後・若狭へ、高梁川では米子・松江・出雲へ、それぞれ日本海とつながれる位置にあり、中国山地はゆるやかで、児島湾は製塩の良港として、早くから屯倉が置かれる大事な産業地域であったと言える。しかも日本唯一とも言える鉄鉱石の産地で最古級の製鉄工房、古代米としての縄文後期の陸稲畑作栽培も一番早く始まっている。水田稲作は長崎・佐賀の菜畑に次ぐ早期開始が起きている。
 
 

点線の円弧・・・楯築の弧帯文の変化であろう
弧文・弧帯文も縄文死生観から生まれ出ると考えてかまうまい。
 
 
 
 

 
 

遠賀川から日本海で東北へ向かった稲作伝播の波は、青森や秋田で九州倭人の鯨面文身を持つ仮面や頭部土製品や巻貝のオブジェ東北に残したが、それらが遅れて戻るようにして古志、出雲に下りてくる。
 

分銅型土製品に描かれる模様の変化
半円形の重弧文は吉備地域に多く、やがて東へ向かい纏向で弧文となるか?

そして出雲日本海には四隅突出型墳丘墓という独特の弥生墳丘墓が生まれた。しかし四隅突出型墳丘墓はなぜか出雲と古志の間に挟まれる丹後・若狭湾では飛び地のように発見されない。
 
 

出雲(というよりも松江・米子の東出雲が四隅突出型墳丘墓の中心地)の大王墓である西谷墳丘墓は日本海社会の西の端である西出雲に置かれているが、そこから東へ広がり、出石~若狭湾を飛び越えて福井、富山・新潟へと伝播している。これは記紀・オオクニヌシと越のヌナカワヒメ婚姻にぴったりと合致する。丹後と吉備のつながりは地名「加佐郡(かさぐん)」として宮津・舞鶴に存在する。「かさ」は吉備笠臣(かさのおみ)に由来した。今の岡山県西部の浅口・笠岡あたり(のちに広島県東部とともに備後国)にいたのは鴨別(かもわけ)という地方豪族である。この氏族は岡山市の造山古墳の王であろう吉備王家の別れで、岡山市にも加茂の地名を残している。この鴨別から笠臣は出る。
 
この四隅突出型墳丘墓のある地域を分断するように、日本海からアメノヒボコと都怒賀阿羅斯等はやってきて、オオクニヌシと土地をめぐって争ったと『播磨国風土記』が書いたのである。
 
 
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そして吉備地方には、対面する瀬戸内式土器、讃岐の土器、播磨の土器、近畿の土器以外に若狭の土器も混在するのである。これは吉備が纏向と非常によく似た「全国から人がやってきた都市」であったことを思わせる。

「津寺遺跡からは東海地方の台付甕、北陸の甕・器台、畿内の壺・甕・高杯、讃岐の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・高杯・鼓形器台・台付椀などが確認される。また、津寺遺跡から約1km南にある足守川加茂A・B遺跡からは東海地方の台付甕、畿内の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・鼓形器台、西部瀬戸内の壺・甕、讃岐の壺・甕、九州の壺・甕・高杯などが確認されている。この他にも高塚遺 跡、立田遺跡、政所遺跡、上東遺跡など、挙げればきりがない。」
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu13.html
 
 
若狭と吉備は製塩でつながっていた
若狭の土器製塩の開始は、やはり古代史の流れの中でとらえられ、そのことについて石部正志氏は「若狭地方の首長が畿内もしくは吉備地方の首長と直接的な交渉(同盟・連合関係)をもった段階でおそらく若干の製塩技術保持者とともに製塩技術を若狭に導入」したと考えられる。
 
つまり出雲・越の日本海同盟の真ん中にアメノヒボコ・ツヌガアラシトという外来者が切り込んだのと同じに、吉備が若狭に入り込み分断したのである。これは吉備=朝鮮半島東部との交流によって出雲の港を簒奪したために、四隅突出型墳丘墓は消えていくと捉えられることにもなるだろうか?そうなるとここで吉備=物部・中臣?との見方も出てくることになる。出雲の国譲りさせたのは物部氏と中臣氏である。
そういうサイトhttp://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test230.htm
 
 
 
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ついでだが、去年、唐古・鍵遺跡で一点の九州須久式土器が出て話題になった。纏向遺跡では南九州の土器しか出ていないのに石野博信あたりは「九州の」と書く。当時の南九州は「外国」だったのにである。それより古い唐古・鍵からも北部九州の土器が出たと大和学派が言いたいのである。そうすると九州がすでにヤマトの邪馬台国に従っていたことにできるからだ。まさにヤマト中心主義の最たるもの。
 
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笠臣誕生のエピソードは神功皇后紀にこうある。
「この部分で、日本書紀では、神功皇后が熊襲国の土蜘蛛退治のために、筑前国の松峡宮 (福岡県朝倉郡筑前町栗田)に、遷った時のエピソードとして書かれています。しかしながら、新撰姓氏録の方では、下記のように書かれています。
 
笠が吹き落されることは、姓氏録、右京皇別、
 笠朝臣条の鴨別命の話に、吉備の出来事として書かれています。
 
 「応神天皇が吉備国に巡幸され、加佐米山(かさめやま)に登った時、
 飄風が御笠を吹き放ちて、天皇、之を怪しとおぼしき。
 鴨別命がもうさく「神祇、天皇に奉(つかへまつ)らむと欲す。
かれ、其の状(かたち)ならむ」という。
 天皇、其の真偽を知らまく欲して、其の山を猟令(かりし)めけるに、
 得たまふ所、甚だ多し。天皇大く悦びたまひ、名を賀佐(かさ)と賜ふ』 」
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_242.html
 
 
また鴨別と御友別(みともわけ)のこととしては

「<日本書紀 神功皇后 摂政前紀 仲哀天皇九年条>
然して後に、吉備臣の祖、鴨別を遣して、熊襲国を撃たしむ。

 未だ浹辰を経ずして自づからに服ひぬ。
 
且荷持田村(荷持 此をば能登利と云ふ。)に、羽白熊鷲といふ者有り。
 其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る。
 是を以て、皇命に従はず。毎に人民を略盜む。
 
戊子(十七日)に、皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峡宮に遷りたまふ。

 時に飄風忽に起こりて、御笠堕風されぬ。故、時人、其の処を号けて御笠と曰ふ。
 
辛卯(二十日)に層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。
 左右に謂りて曰はく、「熊鷲を取り得つ。我が心則ち安し。」

 故、其の処を号けて安と曰ふ。
丙申(二十五日)に、転りまして山門県に至りて、則ち土蜘蛛田油津媛を誅ふ。
 時に田油津媛が兄、夏羽、軍を興して迎へ来く。
 然るに其の妹の誅されたることを聞きて逃げぬ。」
 
<日本書紀 応神天皇22年条>
また、波区芸県を以て、御友別が弟、鴨別に封さす。是、笠臣の始祖なり。」
同上サイトから

とあり、『肥後国風土記』逸文として「続日本紀」が引用して、
「爾陪の魚
 肥後の国の風土記にいう。玉名の郡。長渚(ながす)の浜。(郡役所の西にある。)昔、大足彦の天皇(景行天皇)が球磨噌唹を討ってお還りになったとき、御船をこの浜に泊めた。云々。また御船の左右に泳いでいる魚が多かった。船頭の吉備の国の朝勝見(あさかつみ)が釣針で釣ると沢山獲物があったので献った。天皇は勅して、「献った魚は、いったい何という魚か」と仰せられた。朝勝見は、「その名は知りませんが、どうやら鱒魚(麻須)に似ているようです」と申しあげた。天皇はご覧になって、「俗に物が多いこと見てすなわち爾陪佐爾(ひへさに)という。いま献るところの魚も大変多い。爾陪の魚というがよい」と仰せられた。今爾陪の魚というのはこの由来による。(『釈日本紀』十六)
『風土記』平凡社」
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-2bbf.html
 
とある。景行天皇がクマソ征伐で熊本県玉名に立ち寄ったとき、その船のかじ取りの名が吉備の朝勝見だったとある。その後景行は彼の舵取りで葦北に向かっている。この人物・朝勝見は火の葦北(あしきた)国造の祖・鴨分と出身地が同じ吉備の浅口である。浅口郡には鴨方町がある(現在浅口市)。鴨別の名前から鴨方と呼ばれてきた。

要するに景行天皇の嫁に吉備臣祖若建吉備津日子の女、針間之伊那毘能大郎女が
嫁ぐことでヤマトタケルが生まれ、熊襲征伐にいくわけだが、その熊襲がいたらしき熊本県に、朝口由来の益城郡朝来那山(ちょうらいなさん・朝来山とも)があり、播磨には朝来市があり、天空の城竹田城を置く朝来山がある。熊本県芦北肥後国葦北, 吉備都津彦の兒三井根子命とあって、つまりこれらは吉備由来氏族である。

 
 
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弥生時代後半になって、吉備には縄文的な土偶や人面土器が登場した。その最初は楯築の弧帯文石にある顔面である。その石全体を弧帯文がとりまいている。その弧帯文が描かれた特殊器台が纏向で出た。だから楯築墳丘棒の双方円墳が纏向形前方後円墳の最初の試作品だと畿内学者は言う。しかしその形状はそもそも東北の柄鏡型住居にすでにあった。するとそれを吉備の1~2世紀に持ち込んだのは日本海を南下してきた出雲・古志にいた縄文人であろう。鯨面文身の人面土偶などは彼らだろうか?
 
しかし吉備には北部九州、南九州からの海人族らも来ていた。安曇の倭人も鯨面文身をしている。そして先に東北に稲作とともに彼らが向かったのは、日本海で東北へであった。それはすでに縄文後期には始まっていた。
 
その縄文人の彼らが文身を真似したのだろうか?そして南下して出雲から吉備に入ったのが鴨一族だったのだろうか?ならばそれが卑弥呼の先祖だったのだろうか?まだわからない。その2にご期待。いずれにせよ、吉備のヘテラルキー社会が移動したのが纏向だろう。そこにいたのは狗奴国の人だったのである。