今回は思い切り自由に、邪馬台国を決め付けてみよう。
 
 

 
 
大阪市の人口が東京都よりも多かった時代をあなたは知っていますか?からはじめてみようと思う。するとそれが2~3世紀のヤマトにそっくりだと気づくはず。
 
 
 
 
◆大大阪市時代とは
「明治時代に隣府でかつての首都であった京都市を人口で上回っていたが、1925年(大正14年)4月1日の第二次市域拡張によって、大阪市は西成郡・東成郡の残余44町村全てを編入して、面積181平方キロメートル、人口211万人となり、東京市を上回る日本一の大都市となった。当時の世界でも6番目に人口の多い都市であった。
 
東南西北の4区からスタートした区の数も、同日をもって13区へ増加し、天下の台所と称された近世以来の豊かな経済地盤を活かして、商業・紡績・鉄鋼などあらゆる産業が栄え、文化・芸術・産業の中心として近代建築が華開く街をモボ・モガが闊歩する、華やかで活気にあふれた黄金時代だったと伝わっている。大大阪時代は、関東大震災で被災した住民・企業の大阪移住でピークを迎えた。象徴的な出来事としては、大坂城天守の再建や御堂筋および大阪市営地下鉄御堂筋線の建設などがある。
 
転機の訪れのひとつに1932年(昭和7年)10月1日が挙げられる。この日、大阪市は分区によって区の数で東京市に並ぶ15区へ増加したが、同日、東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加し、いわゆる大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生する。
 
また、繁栄の裏で同時進行にあった第一次世界大戦後の恐慌や昭和恐慌では、繊維や金属産業が大打撃を受け衰退した。さらに、戦争への時代へと向かう中、統制経済等の政策により、東京に対し大阪の相対的地位は次第に低下して行った。それでも大阪は、当時は東京に次ぐ日本第2の都市であり、戦後復興と高度経済成長期にも西日本の中心都市としての繁栄はなお続く。
 
しかし、大阪の衰退は日本万国博覧会開催の前後より徐々に始まり、それが決定的となったのは、高度経済成長の終焉後、安定成長期以降のことである。1978年(昭和53)年には大阪市の人口が東京都市圏(横浜都市圏)の神奈川県横浜市に追い抜かれ、本格的な東京一極集中時代が幕を開ける。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%99%82%E4%BB%A3
 
 


 
 
 
◆東京より人口が多かった大阪は、古代ヤマトに比定可能?
 
 
 
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千里ニュータウン遠景
 
 
 大阪市の人口をかつての東京15区(それまでの東京市域)と横浜市が上回るのは、筆者の過去読んだ大阪府史においても昭和53年(1978年)頃だったと記憶している。若い頃、大阪市内で働き始めたときに、自分が働く地域の歴史くらいは知っておこうと、調べた記憶が蘇る。明治時代に京都を追い抜いたあと、大正時代までは東京には追いついていないが、昭和の初期から20数年間は東京を逆転し、大阪市がトップになっている。これは記事にあるような編入による増加と、繊維・金属加工業などの爆発的反映による外部からの急激な労働力の進入が起きたためである。特に関東大震災による東京本社の大阪移転が多かったようだ。
 
横浜市に追い抜かれた1978年と言えばもう大阪万博(1970年・昭和45年)から8年も経っており、高度成長期の終末期。古代史をやる通史の観念では、つい最近の話である。それまで大阪市の人口は首都東京市域の旧15区だけに限れば、まだ上回っていたはず(現在の東京都全域が大阪15区を上回るのは昭和7年の大東京36区増加のとき)なわけで、初めて知った若い人には「目から鱗」ではないかと思う。筆者も調べた当時は「ほんまかいな?!」だったのを覚えている。当時の地方で学んだ知識では、大阪市は埋め立てと地下鉄工事による地盤沈下が頻繁していて、大発展の最中だったことぐらいは知っていたが・・・。
 
 
 
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筆者が大学卒業後はじめて結婚生活を開始した樟葉ローズタウン遠景
典型的な高度成長期の電鉄資本のニュータウン。
 
 
ちょうどその大発展中の大阪を含めた近畿圏(京都市)に筆者は九州から出てきている。そして奇しくもニュータウンの申し子のような樟葉ローズタウンを控える枚方市で暮らし始めていた。驚くような大団地、マンション群が淀川の東側の斜面を埋め尽くしていることに仰天した覚えがある。それに先立つ万博の年に筆者は中学生で豊中、千里のニュータウンも見ている。兄の結婚式が千里セルシーであったからだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
◆歴史は必ず繰り返す
さて個人的思い出はさておいて、ではこの記事の、「大阪市」を古代ヤマト乃至は畿内地域と置き換え、「東京都」を古代北部、西北部九州有明沿岸地域と置き換えてみて欲しい。意外や意外、この人口の変遷状況が、実は古代日本の3世紀前後に不思議にぴったりあてはまりはしないだろうか?
 
「歴史は繰り返す」ともよく言う。
かつて歴史学は、「歴史は繰り返さない」「常に一定方向へ発展してゆく」をモットーとした考え方で展開されていた。しかし、実際にはちゃんと歴史は同じような流れを何度も繰り返してきたのである。縄文の古い円の思想である環状列石・環状集落などの形状も環濠集落や円墳そのものであり、土偶も、小さく扁平にはなるが縄文のものが出る。
 

先の記事に縄文時代~弥生時代へと変遷する地域別推定人口の一覧表を添付した。
 
 
 
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そこでは、縄文中期~弥生時代にかけて、東海・中部と近畿地方において、特に北日本縄文人が南下し、縄文的遺跡や遺物が増え始めたことを分析した。この中で、土器の東北や近畿における縄文と弥生の合体が起き始めることも書いた。
 
 
 
 
◆東海系パレス式土器は弥生と縄文合体の最高峰
特にその東西文化の最も顕著に現れた土器が、尾張地方・三河地方に多い「パレス式土器」であろうと見る。
 

東海系パレススタイル(式)土器
その華麗さからギリシアクレタ島の壷をイメージさせて命名された
典型的弥生土器にほかにはない鮮烈な朱は縄文的なデザインの「凝り」を示す
 

この土器は縄をこすりつけた意匠ではなく、真っ赤な朱色の「生命色」あふれる色彩の線分が、弥生土器の形状にいく層も塗りこめられ、それまでの遠賀川式を中心とする、朝鮮的なシンプルで愛想のない、機能美オンリーの土器とは一線を画した仕上がりを見せ、しかもそれが近畿や瀬戸内、関東にまで時代を追って出現してゆく。この円形に朱色の色彩感覚を筆者は、縄文人的、あるいはもっと古い先土器時代から続いた太古の「凝り」の残照であると見るのである。

また畿内での東海系土器の出土地が纏向にも第一位の割合で出ることも、それが縄文人によるもので、纏向の中心人物が吉備的な墳墓と祭祀を持つ反面で、東海の工人的な人びとの多さこそが、寒冷化で南下してきた尾張地方の縄文系の、温暖化しても東海・中部・近畿への残存率が高かったことを思わせると考えている。尾張には九州や近畿とはまた別の、日本海から北陸、中央アルプスの「風の道」を抜けてきた高句麗・新羅などの渡来系も多かっただろう。現在の名古屋の食文化の特殊性、祭りの特殊性、醤油より味噌優先嗜好、常滑に始まる土器製作の歴史などを見ると、縄文や渡来の影響が、東海・中部で独自に起きたはずであろう。
 
 

 
◆2世紀まで北部九州は「東京都」、しかし弥生人はいずこかへ?
2世紀前半まで、北部九州は「東京都」のような最先端の地であり、畿内は遅れていたのは銅鐸の鋳型が九州で出、その鋳型の製品(銅鐸)が近畿で出ることでも明白である。墳墓の埋葬でも九州のような最新の銅剣や、銅鏡、鉄剣などは、近畿では古墳横穴式石室同様、100年以上遅れて入った。稲作も、遠賀川から先に東北の青森へ向かうし、遠賀川式を模倣する縄文土器も東北のほうが100年も早く東北に登場している。この遅れていたはずの近畿に、突如前方後円墳が登場したのが3世紀中ごろである。同時に2世紀九州の鏡祭祀や、吉備の円筒埴輪、特殊器台、弧文、そして東海・丹後系・瀬戸内系土器までもが登場するのである。同じく北部九州の南海産貝殻の模倣品は4世紀まで入っていない。
 
 
 
◆中国でわかる今も昔も「急速発展国の先進国模倣」=ヤマトの九州模倣
遅れた地域が、急激に発展しようとするとき、現代の中国を見てもわかるように、まず先進地を訪問し、学び、持ち帰り、模倣し、試行錯誤を繰り返す。かつては日本も、アメリカや欧州の模倣から始まった時代があった。明治~戦後まで、その期間は優に東京オリンピックや大阪万博開催まで100年かかったのである。古代の先進文化を畿内が取り込んで追いつこうとした期間も、やはり奇遇にも100年以上かかった。
 
この数百年の間に、大陸では中国の王朝が何度か入れ替わっている。一昨日の年表を見れば、黄巾の乱で後漢が滅び、三国群雄割拠し、魏が呉に勝って、またすぐに西晋に変わり、乱世となって五胡十六国時代の争乱から東晋が残存していた呉を完全に滅ぼし・・・やがて宋へと大転換してゆく。この節目節目に彼らの海外逃避行が何度も東アジア各地に起きなかったはずはない。
 
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◆魏志の「南にある狗奴国」とは魏の南にある呉の属国
魏志倭人伝に、西晋時代の作者はこう書いた。
「邪馬台国の女王は、南にある狗奴国王と和せず」
長い間われわれは狗奴国とはどこにある国だったのかで悩み続け、邪馬台国も不明のままでやってきた。しかしこの「南にある」という文言を、魏の南と考えたとき、作者の意図が見えてくる。中国では、魏の南にあったのは呉にほかならない。「狗奴国」という文字表記にも「狗」すなわち長江以南の倭種である江南白水郎(あま)の風俗がそのまま表されていることに気づく。つまりそれまでは呉に朝貢し、上下関係を持ち、呉王の子孫を名乗った人々の国が狗奴国ということだろう。
魏志は明らかに残存する呉を牽制する意味で、ヤマトを呉の正面にあたる邪馬台国の南に意図的に置いたのである。しかし日本の南九州や紀伊半島南部に、そのような王国は痕跡がない。

それはヤマトである。
 
特に南九州からの呉の太伯子孫を自称する隼人海人族の早期移住の南山背、巨椋池周辺での影響は大きいだろう。
またなぜ邪馬台国の女王が南朝的な鏡である神獣鏡を欲したかも、ヤマトが九州の模倣をして、朝貢=南朝神秘主義=鬼道のよりしろとしていることを証明する。
 
 
 
 
◆3世紀卑弥呼まで、ヤマトは縄文ヘテラルキー社会
ヤマトの「共立」体制は、古代の集団で言い表せば「ヘテラルキー=多頭並立的階級社会」な階級のない、職業並立体制ととらえられるが、それはまさに縄文の円の思想とそっくりな、ひとりの王によるひとつのピラミッドという独裁的身分階級=王権や統治、全国規模の「征服された」統一文明がない、組織ごとに並立して作業を手分けするファジーな集団で、渡来人のほうが多かった北部九州のような大陸的王権(筑紫君のような族長を頂点とする)の「ヒエラルキーな集団=寡頭王権的階級社会=1ピラミッド式」ではなかったことが推定できる(松木武彦2007)。
 
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松木武彦『列島創世記』より
このヘテラルキー社会とは、キャロール・クラムレイ(米国人類学)らによると、ちょうど世界史の「ケルト」集団に当たり、ヒエラルキー社会が祭祀遺物として見上げる建造物=ピラミッドやジックラトや教会などを持つのに比べ、平面的で円形の建造物=ストーン・ヘンジや環状列石を祭祀場に持ち、それはちょうど日本で、甕棺墓や各地の弥生墳墓もそうで、それが階級社会の墳丘墓から巨大古墳へ見上げる型(仰揚型)になるにつれてヒエラルキー型つまり「王権」へと移動していくとする。
 
ところが、日本の古墳は、開始当初から5世紀初頭までこそ確かに高さも大きさも巨大だが、その形状はあくまで縄文の「柄鏡(えかがみ)型住居」の形状を平面的に大きくしただけで、朝鮮の王墓のように、底辺がコンパクトでも上へ高くなる「ゴチック型」ではなく、円の思想に角の思想が加えられただけ。柄鏡型住居は夭折幼児の方形入り口への埋葬から見て、縄文の祖霊祭祀場と見てよい。この祖霊祭祀もまたヤマトの古墳でも行われた「繰り返す歴史」の一部である。
 
 
 
前方後円墳の形状は、あくまでも畿内に多かった縄文系豪族たちの嗜好である「柄鏡住居」をそのまま墓にしただけだとも言える。
 
 
 
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当ブログ 時空を越えて奇妙な一致・柄鏡型住居(縄文時代)より
 
 

 
◆ヤマト、纏向は吉備王=卑弥呼と東海・近畿縄文人と渡来人が同居?
つまりヒエラルキー階級社会の王が2世紀には西からやってきたにも関わらず、畿内では縄文的なヘテラルキーな「共立」を選択せざるを得なかった・・・=圧倒的に畿内には縄文の族長がすでに各地に分かれて住んでいた。しかもそれが(縄文後期からあった「貝の道」などで)すでに呉と接近していた?・・・という結論を導き出せるのである。これが邪馬台国縄文中心説であり、そこに出雲を手にした小さな王権国家・吉備がやってきても、(記紀にあわせてわかりやすく言えば)先住土蜘蛛(つちぐも)の最大管理勢力である葛城などの集団を押さえ込めなかったということになろうか。
 
なぜなら、葛城系一族もまた、南九州から貝の道で日本海出雲を経て畿内に先住した、南海の貝の縄文族だったからではなかろうか?このように、畿内の縄文系種族は南北双方面からの先住とおりあいをつける吉備鴨系種族の弱小王権と把握できる。吉備が瀬戸内航路を開拓したことが、稲作・鉄器のヤマト進出を推し進め、その大元は瀬戸内を通じてつながる北部九州の遠賀川東部、豊前地方に前身があったと推定する。九州と吉備のつながりは、のちの古墳時代後半からの装飾古墳や横穴式に石床、屍床を持つ古墳、造山古墳の阿蘇ピンク石、また文献では景行天皇やヤマトタケルの熊襲征伐で、吉備の豪族が船頭になったり、神功皇后伝説でも吉備の国造が肥後の火の国造になるとか、あるいはまた火葦北国造(球磨川八代~宇土の国司)が吉備王の系譜で弟がかつて呉と深くつきあった百済の官僚になったり、さらに江田船山古墳の鉄剣に、南朝の王のシンボルである魚の絵が刻まれていたりすることで、明々白々であると考えたい。
 
 
 
◆吉備・葛城並立政権を倭五王が王権へ?
その吉備・葛城並立共立政権が滅ぼされるのは5世紀後半、雄略大王の時代だと記紀は書く。しかし時代がそのあたりかどうか、あるいはもっと前にかは定かではなく、「滅んだ」と言うよりも並立して、相互に王を出していたところへ、5世紀初頭に九州に騎馬風習や最新鉄器を「朝鮮半島から」持ち込んできた勢力のような集団がやってきて、畿内ヘテラルキー共存体を一気にヒエラルキーな巨大古墳の時代へ、一時的にだが巻き込んだ倭五王が台頭してきた、と見る。
 
しかしそれもまた、次第に元の縄文的な大王共立王権的なものに、政治的、あるいは継体大王の子供の暗殺?かなにかで替えられてしまったのが飛鳥王権、つまりヤマト天皇祭祀王制のあいまいな始まりだったのだろう。要するにヤマト王権などというのは戦後西欧史観の作り出した幻想であり、実際には天皇はお寺の仏像のようにお飾り、象徴で、宰相が共立されて、中には権力欲の強いもの・・・蘇我氏や藤原氏のような一時的強権が出入りするような世界が、日本だったとしていいのではなかろうか。
 
 
 
◆日本人のあいまいなアイデンティティは縄文文化そのもの
現代の日本人の政治的・対外的なアイデンティティのあいまいさは、縄文後期~弥生時代のヘテラルキー社会=縄文的円の思想が存続した証拠だと言ってもかまうまい。
 
 
 
こういう視点で見て、はじめて邪馬台国=吉備、出雲。狗奴国=ヤマトが確実化して見えてきたと思う。吉備がヤマトに進出してきて縄文的な葛城や物部や尾張は日本海系・東北系縄文氏族との軋轢がおきたのが倭国大乱だとしておこう。息長や宗像は壱岐対馬九州系縄文海人族。大乱は各地でそれぞれ起きた。しかしそれらはみな、いわば倭種同族間での一時的相克で、仲が悪いとされた狗奴国も、乱が終われば同居してしまうのである。本当の敵対関係ではない。そう魏志が書きたかっただけであろう。
 
 
 
筋がよく通った話にできあがったと思う。
 

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