古い認識での青銅器二大文化圏のとらまえ方
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これがわれわれが学校で教わって来た古い認識の銅剣・銅戈と銅鐸文化圏の図式
製作が井上光貞作というから、もう今から50年も前のものである。
 
 
 
最新の図式
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2009年以降、それまでの発掘結果から見直された図式である。
 
これで見ると、弥生時代2世紀の日本列島には、必ずしも「二大文化圏」で完全に塗り分けられる文化圏があったのではなく、ほかにも日本海、瀬戸内、東海にも別の文化圏が並立していたことが見えるのである。
 
さらに青銅器工房というものが、実はその中心地が北部九州から有明海に多数あって、青銅器に関する限りこちらで作られた製品を近畿が買い付けていた、あるいは分配されていたことが見えてくる。
 
しかも近畿の祭器であるはずの銅鐸そのものの鋳型が、佐賀県鳥栖市や吉野ヶ里、あるいは福岡県北部の工房で出るわけである。(つい先日も鳥栖市藤木遺跡で青銅製飾りボタンの鋳型が出ているhttp://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140607-OYS1T50028.html)
 

 
鳥栖市の鋳型出土品各種https://www.city.tosu.lg.jp/1409.htm
 
 
 
 
これはどういうことだろうか?
2世紀までの青銅器祭祀は、北部九州では剣や戈や矛で行われたが、鋳型の最新技術はここで始まり、他の地域は福岡や佐賀の工房へ銅鐸製作を依頼し、作ってもらった製品で祭祀をした、という事実以外の何ものでもない。
 
 
これが客観的事実なのだ。
 
 
 
 
すると、3世紀になって銅鐸祭祀が終了する近畿地方では何が起きたのか?が問題になる。
 
 
銅鐸祭祀をしていた近畿のプレ王権が、一気に九州平原のような1~2世紀の銅鏡祭祀に突然変化した、ということになる。
 
ということは「南にある」と魏志が認識しようとした近畿では、銅鏡祭祀集団による銅鐸祭祀集団の「乗っ取り」があったという推測が成り立つことになる。
 
そして登場するのが3世紀後半の卑弥呼女王の鏡祭祀なのである。
 
 
 
 
となると近畿は、つまり纏向遺跡は勝者となった狗奴国なのか、ということにもなりかねまい?そうなれば古墳は狗奴国=近畿の風習となって、実にスムーズに納得できてしまうし、その後の4世紀政権も狗奴国となり、5世紀の倭五王政権がそれを乗っ取り、それがまた飛鳥政権に乗っ取られるという、彦姫交代性とも見合ってくることになる。つまりつきつめて言えば、日本の王権の交代劇がここから始まっているとも言えようか。
 
 
 出雲が良港として、両文化圏の共有地となった証拠が、あの大量銅剣・銅鐸の共存にあると見ると、なおさら面白くなる。日本海を二大文化圏が共有するための争いも起こり、その間にいつのまにか吉備がヤマトの縄文勢力とともに近畿を牛耳ったと。
 
 魏志の邪馬台国「南」記述はあきらかに呉を挟み込む位置に倭の中心地をおきたかった結果であろう。それが実際は吉備だったならば、その南にあるのは近畿であるから狗奴国・・・と、そういう、恣意的で押し付けがましい畿内説を逆手に取った考え方だってありえることになる。
 
 

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