八咫鏡(やたのかがみ)については、それが国内のどこから来たかの結論はすでに決着しているとしなければならない。

■伊勢神宮にあるとされている八咫鏡は伊勢の『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』(『御鎮座伝記』)では、「八咫鏡は八頭花崎八葉形也」と書かれている。これは神獣鏡とか画像鏡などではないことがうかがい知れる。

■寸法は卜部兼方の研究書『釈日本紀』で、ヤタは64寸と考えられており、これは円周の長さになる。直径に直せば二尺一寸三分(65センチほど)。これは非常に大きい。ところが『皇太神宮儀式帳』(804)や『延喜式』(10世紀)では一尺六寸三分(49センチほど)と記載があり、数値が合致しない。これは唐尺と後漢尺の相違である(あとで解説)。

■果たしてこのような大きな銅鏡が作れるのか?という疑問から、往古はもしや北朝に多かった鉄鏡だったのではないかという疑念が出て、今でも取りざたされる。

■『日本書紀』に鍛人(かぬち=渡来系鍛冶屋)イシゴリドメがアマテラスに命じられて天の金山の鉄で鏡を作った話が出てくる。

■ところが1965年、北部九州の伊都国中心部にある周溝墓(二世紀中ごろと推定されている)から直径46・5センチもある内行花紋鏡(ないこうかもんきょう)が四面(最近五面説あり。コメントを確認されたし)も出土した。あの原田大六の手による。いわゆるかの有名な平原(ひらばる)古墓出土超大型内行花紋鏡である。
(原田大六『平原弥生古墳--大日孁貴の墓』)
一般の前漢鏡はだいたい中型で16センチ、三角縁神獣鏡で20数センチであるから、その倍以上、重量では約8キロ近くもあり、10~16倍の特大鏡である。このような巨大な鏡はここでしか出てこない。しかもその直径が前述の『儀式帳』や『延喜式』の数値に非常に近似していた。

■つまり八咫鏡サイズである。ゆえに八咫鏡は北部九州の伊都国経由で大和に入ったと、これは誰もが認めるしかない。

■延喜式などの長さは唐尺計算であり、平原の46・5センチは後漢尺では二尺二分であるから卜部計算の二尺一寸三分にほぼ合致する。

■「八頭花崎八葉」という絵柄にもジャストフィットする。
内行花紋鏡は一般に八花で、四つの葉を持つが、平原のものは八花八葉である。葉は鈕(ちゅう)=紐を通すもち手の周囲にあるガクの部分で「八葉座」と呼ぶ。銅鼓の太陽のように放射状の花弁は太陽を表すとも考えられており、花弁に似ることから内行花紋と銘銘された。しかし、アマテラスが太陽神を祭る巫女神であることから、この絵柄は太陽鏡としたほうがいいのかも知れない。
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■考古遺物と神話を結びつける手法は、度が過ぎてはいけないだろうが、どう見ても、ほかにない(もう少し小さいのはある)のであるから、この鏡が八咫鏡であると考えられるわけである。
それが北部九州の二世紀からしか出ていない。
そもそも近畿地方、大和地方では、まず
1 1~3世紀初頭にシセキ墓や甕棺墓などの古墓がなく、古墳にも鏡の副葬がない。
2 つまり三世紀後半に突如として前方後円墳が現れ、副葬品風習がなく、副葬はかなり遅くなり、三角縁神獣鏡が中心。
3 そもそも当初、大和には鏡を好む風習がなかった。
というのが、近畿の学者にも行き渡っているはずである。
しかも本家、中国から三角縁神獣鏡が出てこない。
にも関わらず神獣鏡を重視してしまったのは、ひとえに小林行雄学閥の影響が大きかったためである。
従って、今、近畿の学者でも(纏向を発掘し、そこが邪馬台国だと主張する考古学者でさえ)、三角縁神獣鏡による主張は消え去った。
これまで500面以上も出てしまった鏡から説を展開するのは、まだそんなことを?と言われるようになった。

■そもそも中国南朝も北朝も、また朝鮮半島も、これほど巨大な鏡は存在せず、しかも鏡の副葬も日本の三角縁神獣鏡のように、墓に山ほど入れる風習すらない。せいぜい2・3枚入れてあるのが普通なのだ。

■つまり伊勢神宮に八咫鏡=八頭花崎八葉鏡があるとすれば、それは北部九州で作られ、一枚だけが大和にもたらされ、伊勢に移された(森浩一)ことになるだろう。

■実は巨大な八咫鏡サイズの太陽を祭祀に使うのは中国少数民族トンの「道切り神事」にある(諏訪春雄)。



■そもそも伊勢には東大寺大仏鍍金に使われた水銀鉱脈があり、水銀は、銅鏡を磨き上げる溶剤になるのであるから、伊勢神宮に鏡を送るという崇神の記事はなかなかに意味がある。崇神・垂仁が皇室内の「同床共殿」されてきた八咫鏡という記事には信憑性は乏しかろう。伊勢にもともと祭られていた伊勢大神という水銀関与の地元神には、「祟る」=水銀禍の危険性があった。ゆえに皇室のある大和から「追い出して」、水銀の産地のほうがいいだろうと理屈をつけて移動させたのだと見て取れる。そもそも伊勢はそのような古い時代から皇室の尊崇があったわけではない。記紀の記事でも、伊勢に何度も出向くのは持統天皇だけである。
また伊勢を遠くから拝んだのはヤマトタケル、景行天皇の記事のあとは、壬申の乱の天武まで皆無である。伊勢を神宮として、皇室の神であるアマテラスに代表される巫女神を祭るのは持統の事跡である。

伊勢神宮は貴種たちの太陽信仰の背景に長江周辺の南方系民族の風習があったことのひとつの証明でしかなく、長江から来た弥生人が奴国、伊都国から大和へ移動したあかしでもある。それはほとんどが縄文系の民衆にはあまり縁のない話であった。天津神とか国津神とか言うけれど、結局は弥生系倭人の祭る神は、縄文系先住民・・・言い換えればほとんどの現代の日本人には無縁で、そもそもが倭人の信仰も、縄文系土俗信仰をベースにして創作された、倭族たちのためのアマテラスなのだろう。

というわけで日本には今、伊都国が持っていた四枚の八咫鏡が存在する。
なお平原遺跡は今後三世紀中盤以降まであったとなる可能性がある。伊都国が仲哀天皇に帰順したと『日本書紀』が書くその時期は、西暦4世紀に換算できるのである。



PS この記事へのコメントから抜粋して追補
「ところで平原遺跡出土の超大型内行花文鏡は昔は4面と言われていましたが、断面が合わないので現在では5枚だったことが判明しています。国宝指定記念企画展で知りました。46.5㎝のサイズは圧倒的です。大きさでこれに匹敵する唯一のものに山口の柳井茶臼山古墳出土の鼉龍文鏡(だりゅうもんきょう)44.5㎝が知られていますが、文様の特徴は文献の記述に合いませんね。対して大和で一番大きな内行花文鏡は柳本大塚古墳の39.7㎝、次に下池山古墳の37.6㎝と平原出土にはとても及びませんし、文献より小さくなります」


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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典