高地性集落概要
「高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。」

「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。しかし、北部九州にはみられない集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。
 
以上を総合して、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。しかし、高地性遺跡からも同時期の平地の遺跡とほぼ同じ内容の遺物が見つかっており単なる監視所・のろし台といったものではなく、かなりの期間、住居を構えた場所だったことも判明してきている。

集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。つまり、畿内を中心とした地域で進められていた統合・連合への動きであった。豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。さらに、弥生中期~後期という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方や、神武東征に象徴される九州勢力の東進に対する備えと見る説もある」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9C%B0%E6%80%A7%E9%9B%86%E8%90%BD
 
 
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倭国大乱と高地性集落
後漢書や魏志が記録している「倭国大いに乱れる」は、しかし高地性集落発生期間より前の弥生中期の2世紀中ごろ(桓・霊の時代 後漢 の 光和年間 (西暦178年~184年)の10年間)で、後期初頭から始まる高地性集落増加とはずれている。
 
また高地性集落そのものは3世紀後半にまで存続し、弥生時代を超えてはみだしてしまうものもある。よって、同志社大学の若林邦彦らのグループ(森浩一の観音寺山遺跡発掘結果を受けて研究を続けるいわば森浩一の教え子たち)
は、少なくとも倭国の大乱は二度以上の複数回生じており、それは東アジアにおける大陸の対立関係を日本列島に移した小競り合いであり、クニを二分した規模の「大乱」というよりも、もっと小さな地域での「どちらにつくか?」の相克が、各地でいっせいに起こった結果であろうとする。
 

光和年間には中国で「黄巾の乱」が起こっており、その後卑弥呼女王共立直前には三国鼎立で、魏呉戦争が起こった。卑弥呼死後にまた大乱があり臺與が擁立される。その後の詳細は記録がないので不明であるが、臺與のあともまた乱はあちこちで起きたと考えてもあながち間違いではあるまい。
 
つまり小集団のある地域内で、属すべき大国選別戦争が起こった、それが全国規模で起きた時代が弥生中期から後期であると見てよい。そうした弥生後半の各地の相克の中から纏向に前方後円墳が登場し、それが列島の東西に拡販していったわけであるから、ここからが古墳時代--つまり統一国家時代=古代(日本史年代観の)の始まりということができる。『日本書記』では崇神から応神への移行期間がここに当たるかと思われる。
 
 
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瀬戸内海に多出した時代は中期後半~後期初頭で紀元前100~紀元後100年あたりであるために、ここがほぼ後漢書の大乱にあたるともされ、研究者によっては瀬戸内海海人族つまり海賊たちの内乱による瀬戸内監視のための物見台やのろし台ではという意見がこれまで言われてきた。しかしそれだけなら、古墳時代のかかりに及ぶ、瀬戸内以外の遠隔地(新潟や石川にまで)それが移動していった理由がわからなくなるであろう。
 
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邪馬台国の時代に、筑紫に邪馬台国があり、南の狗奴国と対立していたのならば、高地性集落は現在の熊本県菊池市にある鞠智城(くくちじょう 7世紀)のような物見台や山城がもっとたくさん弥生時代に作られていなければおかしい。しかし九州中心部にそれはいっさいない。むしろそれは次第に東へ移動してゆき、古墳時代初頭には日本海能登以北に広がったのである。
 
 

最初、「太平洋ベルト地帯」と今言われる瀬戸内海と玄界灘沿線から大阪湾にかけて築かれていた高地性集落が、東へ移動していったのは、大陸の脅威が中国よりも、日本海沿岸国家に移動したか、半島からの侵入者が急増したためではないかと見える。

最初の方向性は完全に九州玄海灘から瀬戸内を抜けてやってくる脅威を意識した地域での地域内相克が原因かと見るが、それだけだったのだろうか?

筆者は「熊襲が攻めてきた」という瀬戸内の民間伝承が気になっている。
以前書いたことに、北部九州はひとつではなく、那珂川を挟んで東西で人種が違い、墳墓も違うということがある。そして奴国や伊都国は共立時代には共存共栄したが、実は常は対立している地域で、奴国は狗奴国なのではないか?ひいては九州の北部沿岸以外は狗奴国に乗っ取られていた?という見方である。玄界灘にも高地性集落は早期に登場しており、それは熊襲を意識したものだったのかも知れない。狗奴国がもしや5世紀の倭王であるとするならば、それも考えられぬことでもあるまい。
 

若林らの見方にも一理あって、大阪南部の観音寺山遺跡では、投石につかったらしき丸い石がごろごろ出ている。
 
また佐原眞のかつての高地性集落分析で、後期へいくほど、東へ行くほど、石鏃の重厚感が増す傾向があり、それは殺傷能力の増大が瀬戸内東部から河内にかけて有事体制を強化したことを指し示している。佐原氏のほかの考え方は別として、高地性集落に関する詳細分析だけはかなり信憑性が高い。
 
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それで森浩一も発掘にたずさわった生前(1969年頃。それまで古墳時代専門家だった森が弥生時代発掘へ手を染め、広く通史で日本を仰視するきっかけとなった遺跡である)から、高地性集落を地域的内乱の一角と考え始めていた。
 
 
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そうすると、邪馬台国もまたそのような小国のひとつであり、「南にある狗奴国」が西日本全体の視野で見る必要がないのでは?という考え方も出てくるのかも知れない。各地の小国がそれぞれ、大陸のどちらにつくかで反対意見が存在し、ときあればよく対立した。そのつど高地性集落も転々と場所を変えた・・・と考えてみるのもよいだろう。
 
 
ふろく 弥生時代年代観の変遷
 
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画像資料は若林邦彦『「倭国乱」と高地性集落論』観音寺山遺跡  新泉社 2013より
 
 

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