◆墓の視覚的(モニュメント様式)の変遷
世界的流れ
新石器時代初期6000~4000年前 「行為型」・・・ヘンジ・ストーンサー                           クル
 

 
 

新石器時代中期4000~2000年前 「仰視型」・・・ジッグラト・ピラミッ                           ド
(墓であり祭祀場である期間)
 
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バベルの塔もジッグラト(メソポタミアの高層建築)
 
 
 
金属器時代  古代後半から中世    「対面型」・・・教会・寺院
(ゆるやかに墓機能中心へ移行した時代)

近世以後    「墓」 

 
日本や朝鮮
縄文時代    「行為型」・・・環状列石・環状住居=円(結い)の思想
 

大湯環状列石は墓地兼祭祀場兼暦である
 
 

弥生時代  九州「仰視型」・・・支石墓・甕棺墓・周溝墓→四隅突出型・楯築                 型・吉野ヶ里型→竪穴式→横穴式

      畿内「仰視型」・・・方・円形周溝墓→纏向式(吉備型)プレ前方後円                墳・前方後方墳
 
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古墳時代  「仰視型」・・・前方後円墳・前方後方墳・横穴墓→円墳→
(墓と祭祀場祖霊降臨ヨリシロ)
 
奈良時代  「対面型」・・・・大谷一号墳・天武・持統陵墓。小型化し平地へ

平安時代  「墓」「墓標」「石塔」
 
 
 

世界も日本もあらましは同様の推移を見せる。
行為型とは全員参加してそのモニュメントに歩み寄るための導線(参道)を併せ持つ。祭祀場中心。おそらくナスカ地上絵も同じ意味合いを持つ遺跡だろう。

仰視型とは小高く作られ、仰ぎ見る構造。個人の墓兼祖霊祭祀場
 
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長野県松本市の森将軍塚古墳は丘陵にあり仰視型墓の代表
 

対面型とはほぼ立っている人の高さにしつらえた墓。個人・家単位の墓機能メイン

岡山県上房郡北房町大字下呰部258 大谷1号墳は
五段式切り石積で高句麗・百済様式に似る対面式古墳の代表
飛鳥時代7世紀
 
 

対面型祭祀の意味も持ち合わせて現代でも作られる沖縄の亀甲墓カーミナクー墓
(神の来る墓・神とは祖霊である)
 
 
 
墓とは、現代と同じ墓標を持つコンパクトなもの。個の墓。なきがらをおさめる箱
「骨安置所」
 
 
 
このように墓は最初祭祀場色のほうが強い集団墓地であり、部族全体が参加して年間祭祀を行っていたものが、次第に個人・氏族の祖霊のよりしろから個人墓へとコンパクト化してゆく。

途中、どこの世界でも一度は巨大化、高層への道を歩む。その時代は気候が安定し、収穫も多く、財力が蓄えられた時代に当たる。寒冷化時代はあらましコンパクト、移動しながらの埋葬などが多い。
 
 

仁徳天皇陵・大仙古墳 大阪府
 
 

そう考えると、日本の奈良時代は確かに寒冷化した時代で墓もコンパクト化したが、それ以外に政治的に仏教が入り、火葬時代になったことも大きく影響。しかし寒冷化の時代は概してシンクスモール、インナーへ向かう思想が主流となるのは間違いない。これが大陸では外敵の侵入が起こり、墓どころではなくなる地域も多かっただろう。
 
縄文時代の気候変動グラフ
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関東甲信越で火焔土器などが爆発した時代は温暖化へ向かう時代の千年間

そしてこれは言っておかねばならないことだが、いずれの時代も平民はまったく違う形式で集団埋葬(十把ひとからげで穴に)あるいは放置葬、洞穴埋葬などがされた。
 
弥生以降~現代

 飛鳥・奈良時代・戦国時代は寒かった渡来人は増え、いくさがおきたりした
 

古墳の様式の変遷(畿内)
周溝墓→双方中円型楯築墳丘墓・播磨式→百済+縄文=円と、尾張・出雲式四角の合体=前方後円墳→上八角形下方墳→上円下方墳
地域、階層によってかなり違いあり。
 
 
 
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墓室
支石墓→竪穴式(個人葬・再葬、追葬なし)→九州・百済的横穴式や横口式片袖→両袖→
           
          積み石→切り石
 
 
 
 

甕棺郭なし組み合わせ式石棺→郭あり組み合わせ式石棺→周溝墓組み合わせ式→吉備型陶棺→石
床→石屋形→組み合わせ式石棺や舟形木棺→割り竹型→刳り貫き式石棺→木製棺→骨臓器
 
 

設置場所
丘陵上や中腹地形を削って→平地最初から盛り土
族長クラスは横穴墓で対面式
 
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墓誌
日本で墓誌が入れられたのは奈良時代からで、それ以前は「墓守」がいた。小屋に住まい、伝承してきたが、飢饉や戦で四散して誰の墓かがわからなくなった。記録や建造物は残るが、まずもって人が残る例はまれである。ひるがえってあなたのお墓は、何世代前から把握できるでしょうか?やはりせいぜい3~4世代前までが関の山ではなかろうか?やはり記録することは大事なのだ。どんなに調査しても、だいたいの日本人は、自分からそのくらい、記録ある人でも鎌倉時代までがやっとであろう。飛鳥時代まで遡れるのは天皇家と藤原氏あたりしかないだろう。だから日本人には藤姓が増えたのであろう。秦姓も多い。そのほとんどは明治時代以後の名乗りだろう。なぜなら藤原・秦は記録上「敗北していない」両巨頭氏族だからである。一方は貴族、一方は渡来系子孫たちのステータスネームなのだ。

一方、武家の苗字は大半が地名名乗りで、その前は不明で、こちらは源平藤橘をステータスにした。これまたしかし、まことかどうか知れたものではない。そういう武家の系譜のほとんども、実は「系譜買い」したもののつぎはぎばかりである。また「何世孫」などの伝承ほど疑わしいものもない。要するに天皇・藤原家以外は「どこの馬の骨かも定かでない」平民と渡来と蝦夷と被差別者だと言ってよい。まれに正統を受け継いで折られても、系譜を遡れば戦国時代に継嗣した家がほとんどで、オリジナル血脈は途切れていると考えて差し支えない。そもそも現代において、過去どんな先祖だったかなど、学校で教わる数学と同じ。一般的に役にはたたない。
 
なにより、あなたやわたしの子孫が死に絶えようと、人類が死に絶えようと地球は続く。わたしたちは悠久の地球時間の、人類史のほんのひとコマを生かされただけ。そこになんの意味があるはずもない。ただ、血脈を後世へつなぐバトンランナーの一人でしかない。あなたが得た名誉や地位などはいっときの仏壇のお供えにしかならない。子孫にまで永久に受け継がれて欲しいなどと考えるほうがどうかしている。だからあなたのやりたいことをして生きなさい、ただし子孫だけはせめて残しなさい。それだけがほかのあらゆる生物たちと平等に、神=宇宙原理が与えたもうた能力だからだ。そうすれば民族が、人類が、滅びたりするはずがない。子供は人類の宝であるとはそういう意味である。子作りが嫌だ、面倒だ、と思うことは、つまり唯一の地球とのつながりまで絶つことである。そういうものを「この世に不必要なモノ」「アンチ・キリスト」あるいは魔女と言う。(先天的に作れない人は別)

建造物は残ると書いたが、それは個人の住宅は含まれない。それはやがては朽ちていく。住む人も変わる。せっせと建てた自宅などは「仮の住まい」、あなたがた夫婦だけのものだったに過ぎない。子供は出てゆく。家は残って子孫たちのやっかいな残骸になるだけ。遺跡にすらなりはしない。なんと現代人はしがない存在であろう。しかしそれが自由世界というもの。名前など、残さず跡形もなく消えるをよしとしたい。どうせ孫子は成長すれば墓にも来ない。無駄金は使うなかれ、残すなかれ。遊びをせんとや生まれけん。
 
 
 
 
図説資料 『楽しい古墳案内』などより
 
 
 
 

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