予定を変えて以下の記事を転載します。




●梓弓引豊国の 鏡山 見ず 久しならば 恋しけむかも  かがみのおおきみ



「 梓弓引豊国(あづさゆみひきとよくに) の 鏡山見(かがみやまみ) ず 久(ひさ){ママ}ならば 恋(こひ) しけむかも」の〈梓弓引豊国〉は「梓弓を引き 響(とよ) もす」の意であり、トヨは、本来、雷の音のように響きわたる音を表わす擬音語で、トヨミ(響・動)と同根。転じて、あたりに音が満ちあふれるように感じられる豊作の感動をいう語になった注1。

  注1. 平成2年2月 大野晋ほか編『古語辞典』(補訂版)岩波書店 」




◆「あづさゆみひき」
豊国に掛かる枕詞
あづさ弓の音が鳴り響くという豊国
あづさゆみとは梓の木で作った弓。

鏡山は福岡県田川郡香春町の香春岳東側にあるこんもりとした山。伝河内王墓がある。





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鏡王は額田王(ぬかだのおおきみ)の母。



◆「とよ」大音声で鳴り響くさま。
「とよみ」響み・動み 鳴り響くの連用形。騒ぐこと。→平安以降どよむ、どよめくへ変化。

 我が宿に 月押し照れりほととぎす 心あらば今夜来鳴き響もせ  万葉集巻八・1480

  わがやどに つきおしてれり こころあらばこぞなきとよもせ


響もす弓・・・九州の古代氏族には弓をステータスにしたものが多い。まず倭五王時代の西国管理者であった靫負(ゆげい)大伴氏の「ゆげい」とは弓を負うという意味で大王の警護氏族であることをステータスにしている。その配下にあったと思われるのが浮羽郡(うきは・ぐん 古くは生葉郡)の的臣(いくはのおみ)、日田郡の弓連(ゆきのむらじ)、日下部、隼人などである。
その「ゆみ音とよもす」国として豊前地方の「とよ」に掛けて詠まれるのが「あづさゆみひき」である。

(生葉とは豊前などに見られる横穴墓の木の葉の線刻文を持つ部下であるか?)

つまり肥後国人吉地方~筑紫国朝倉郡~豊後国日田郡~豊前国田川郡から企救郡、上・下毛郡にかけて、九州を斜めに縦断するラインに配置されていたと思われる靫負軍団の関の存在があって、その古い時代のつわものどもの雄姿と「とよくに」の「とよ」を鏡王はよく知っていたことになる。また畿内の人々もその意味を知っていたことになる。

これを筆者は弓と菊花の豊ラインと呼びたい。

菊花とはもちろん南九州氏族だった隼人や草部のいた旧熊襲の所領・・・人吉地方から八代、宇土にかけて見られる石棺の菊花文である。


誇り高き大伴氏の手下となって九州の最前線を諸外国の侵略から護った軍団。そのステータスシンボルが菊花と弓であったのだろう。




鏡王女はなぜ「筑紫の豊前の田川郡の香春の」的臣や大伴氏ゆかりの靫負の歌を歌ったのだろうか?




舒明の兄弟に茅渟王がある。二人とも息長広姫の子であるから坂本の息長氏をめのとにしたのである。

額田王の姉になるというのが鏡王長女の鏡王女である。今、彼女たちが姉妹だったとう説は下火である。

筆者は同一人物だったと考える。なぜなら記紀で●●王女を「●●の・おうじょ」と捉える前例が少ない。むしろ●●王の女(むすめ)と考察すべきで、万葉集などが伝える鏡女王や鏡姫王などの表記は疑わしく、鏡王のむすめとよむべき。(参考・荒木敏夫2013)。
 
鏡王女には藤原鎌足に言い寄られたというエピソードがあり、額田王には天武と天智との三角関係がある。どちらかが事実で、どちらかは一方を誤魔化すための捏造であろう。和歌の達人として筆者は鏡王女実在、額田王創作を考える。そして彼女の真実の思い人は鎌足だったと見る。天智・天武の確執を言うがために額田王は鏡王女から創作された。
 
鏡王女の墓所は、忍坂山の南西麓の小盆地のまん中、ちょうど相撲の土俵のようで、こじんまりとひそまりかえり、わずかに松籟をひびかせている趣きである。
 
鏡王とは何者か?
近江湖東南部に鏡山がある。豊前田川郡香春町にも鏡山がある。後者は河内王墓がある。
前者近江息長氏のメッカ、後者は秦氏が祭った息長帯姫大目命を祭る香春岳の目の前である。
いずれも息長氏地名であろう。山科にもある。
「しな」は風でたたら・ふいごである。「しなが」は「おきなが」である。
 
 風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何を嘆かむ
                                 ...鏡王女・ 万葉集
 
風によって火をおこし、それによって銅を精錬した鏡造り氏族。それを鏡王女は知っている。
それが息長氏なくしてはできなかったことも。

鏡王が銅鏡を作る氏族だったとするならば、鏡山はいずれも銅山・銅鏡にちなむ地名であろう。つまり息長氏と秦氏による銅山経営から鏡王という不明な人物像は出てくると言えよう。
 
このように、息長氏に関わるエピソードの多くは謎に満ちているが、継体大王以前のもののほとんどは何らかの理由で息長氏の色合いを薄められ、違う氏族のような扱いになっている。そこにはあるキーポイントがあるだろう。
 
 
それは鏡王女が鎌足の妻で、その子供が藤原不比等であるという事実である。『日本書紀』系譜の捏造はここまで遡って初めて見えてくる。
 
糠手姫のエピソードや名前も筑紫から出てくる采女の子・鏡王女と豊前息長氏の婚姻からの創作なのかも知れない。大海人皇子の妻で あった額田女王は、託宣により筑紫の行宮で中大兄皇子と婚姻の式をあげたと『日本書紀』は言う。なにゆえに筑紫か。真実は額田王=鏡王女は太宰大卒河内王の妻だったのかも知れない。」



河内王は天武天皇の皇孫と系譜は言っているが、同時に百済王の血脈とも造る。
謎の人物である。その河内王の筑紫でのえにしに、なぜ鏡王女が関わるのだろうか?このなぞをいずれは解くのは筆者ではなくこのサイトであろうか。




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