傀儡子や磯良舞いの神楽では、最初に意味不明の発声がある。
これはいわば、磯良を呼び出すための呼び声である。

「阿知女々々々於々々・・・」
という。

「あちめあちめ」と呼ばれて、磯良が「おお」と返事するのである。
折口信夫は細男を「才の男」と考え、才は海系、大人(おおびと)は山系と考えた。
もしその根源が同じなら、たとえば隼人の巨大な人形である「おおひとやごろう」と「神相撲」は、「やられた側の祭りとやったがわの鎮魂となるわけで、双方の隼人征伐の記録と一致する。

鹿児島に八幡信仰を持ち込むのは宇佐の辛島氏であるから、当然といえば当然であろう。

シャーマニズムにもやはり北方系と南方系があるが、いずれも根っこは同じとかんがえてもいいのではあるまいか。底辺での迷信は、やがて中央で権威と形式を持たされ、見場のよい呪術へと発展するが、始まりはやはり民衆の「民間信仰」がきれいに整理されただけのことである。その分どうしても形式化、形骸化の宿命は否めない。これは仏教や神道もまったく同じ事だろう。
見場のよい、体裁のよいものとなったと言っても、根本の理念になんの相違もない。あるのは権威か秘め事かの違いだけである。

権威は自分たちの作り上げたもののように言うが、実際は中国からの借り物の仏教という名の容器に、古い民間迷信をかっこうよく配置しただけのことかも知れない。

本地垂迹と言えば難しく高尚だが、要するに、民間の神をインドの神に置き換えたわけである。

「才の男」とは「境界の人」となろう。
一般に境界を「さかい」と呼ぶように、山里には「境目」がちゃんとあった。
ある不可視の一線を越えると、ちょうど映画「フィールドオブドリームス」でグランドのラインを越えて老年にかわった医者プレーヤーのように、日本人もしきいをまたぐときは、そこを踏まないようにし、踏むと祟りがあるなどと言う。
動物の鹿や猿も、山里に降りてくると人間に殺される。
これを人間の側から言えば「客人=まれびと」となり、動物なら食ってよい、神の与えたもうた「にえ」「みけ」となる。日本人が・・・いや太古の人が獣を食らうとき、その獣は神饌となる。それは「いいわけ」である。
動物をほふる(ほふるという言葉自体が「祝う」と書く)時、首を落とす。
それが平気でできる者などそうはいない。
心になにがしかの罪悪感がわいてくる。
天をあおぐ。
そして神に許しを請うのである。
これが最初の祈りであろう。

「あちめあちめ」の「阿」は接頭語か?中国では人の名を呼ぶとき、接頭語の阿をつける。
「阿Q正伝」という小説の阿である。
今の映画では、香港人の多くがキリスト教の名を持っていて、「阿マーク」とか言っていて面白い。

では知女とはなんだろうか?
知る女・・・これは巫女ではあるまいか?
なんでも知っている・・・それは知識の豊富なことを指すと同時に、知識によって苦しむ者もさしていると考えられる。
例えば孔子は、あまりに深い知識のために終生不機嫌で、知識を得ようとしない輩や婦女子に、たいそうひどくあたったと言う。
日本で不機嫌の人と呼ばれたのは小説家・二葉亭四迷である。
彼も又、豊富な知識に悩まされ、小説家としては大成できず、戯作者と呼ばれることをつねに嫌っていた。「くたばってしまえ」などというどう見てもアイロニーに富んだ言葉をペンネームにして、つい売れてしまったがための不機嫌であった。結局、不遇のママ洋行帰路の客船上で病死する。

巫女、シャーマンの迷信と簡単に片づけられないものがある。
呪いとはつねに幸福への回避の言葉でもあり、そこには陰陽がある。
呪を悪に使えば祟り為し、善行に用いれば結界と成る。
白魔術あれば黒魔術ある。

物部の呪文はあちめではなく、「ふるべゆらゆらとふるべ。ひふみよ・・・」である。
 


 
 
呪とは何だろうか?
それは現代人のようにスポット巡りで体感できるものなのだろうか?
言霊を解せぬ私たち現代人に、ふとその言霊を教えてくれるものが呪文や和歌に隠されている。

呪・・・
それが念じ続けて成就するものなら浅田真央の演技にも呪は垣間見えたのだろう。
あらざらむ この世の外の 思ひ出に
   今ひとたびの 逢ふこともがな
           和泉式部(56番) 『後拾遺集』恋・763
情念の中にも呪がある。
和泉式部は愛の生霊だったと言えるかも知れぬ。
 


 
 
●枕草子 第一五八段 うらやましげなるもの…
■清少納言・『枕草子』「うらやましげなるもの」

 
「稲荷に思ひおこしてまうでたるに、中のみやしろのほど、わりなうくるしきを、念じのぼるに、いささか苦しげもなく、おくれて来るとみる者どもの、ただ行きに先立ちてまうづる、いとめでたし。二月午の日の暁にいそぎしかど、坂のなからばかりにあゆみしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことにわびしくて、など、かからでよき日もあらんものを、なにしに詣でつらんとまで、涙もおちてやすみ困ずるに、四十よばかりなる女の、壺装束などにはあらで、ただひきはこえたるが、「まろは七度詣でし侍るぞ。三度は詣でぬ。いま四度はことにもあらず。まだ未に下向しぬべし」と、道にあひたる人にうちいて下りいきしこそ、ただなる所には目にもとまるまじきに、これが身にただいまならばやとおぼえしか。

 
<訳文>
うらやましいもの…
 思い立って伏見稲荷にお参りしたところ、中の御社のあたりが道もけわしくて息苦しいのを我慢して昇ってゆくと、自分よりあとのものが、なんの苦しそうな様子でもなく、らくらくと先にお参りに行く。うらやましいことであった。
 二月の午の日のことで、明け方早々に出たのだが、坂を半分くらい登ってきたところでもう午前十時ごろになってしまった。だんだんと暑くさえなり、つくづくといやいなって、
「何もこんな苦労しないでも世間にはお参りしない人さえあるのに、どうしてこんなことを思い立ったのかしら」
とまで思いこみ、涙さえこぼして、休んでいると、三十すぎとみえる女で、壺装束などと、旅じたくしない普段着のすそをはしょったものがきて、
「私は今日は七回お参りするつもりなんです。もうこれで三度。あと四回はらくですよ。昼すぎの二時には、下山できますでしょう」
と、道ずりのひとに話しながらおりてゆく。こうゆうひとはめったにないであろうが、その時は自分もああいう女のひとになりたいと思った。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7030/tabi1/4-7/158dan.html

 
■『古今著聞集』
和泉式部が稲荷に参る途中、田中明神の辺りで時雨れてきたので、稲刈りをしていた童から襖(アオ、上着)を借りて参詣を済ませ、帰りには晴れてきたので童に返した。次の日、式部がふと見やると、部屋の隅に“大きやかなる童”が手紙をもって佇んでいた。手紙には「時雨れする稲荷の山の紅葉は あおかりしより 思いそめてき」とあった。この歌に心打たれた式部は、童を部屋に招き入れた
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/inari-sankeiki.html

 
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「(清少納言について)わかっている経歴のなかに”晩年は京都近郊の月輪山荘に住む”とあって、ぼくをはっとさせた。」
「『枕草子』の一五八段「うらやましげなるもの」に清少納言の稲荷詣の体験が語られている。」

 
「和泉式部の稲荷参りは鎌倉時代中期にできた『古今著聞集』にでている。」(森浩一)

 
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・・・・和泉式部は好色の美人である。
田で逢ったわらべが翌日には大童(おおわらわ)に変化して式部の家を訪ねる。式部はこれを家内に引き込むという話である。
つまり肉欲を求めていた式部と稲荷の神の交合=感応を示す稀有な告白小説。
 
 
 
 
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これはジュージューか。
 
 
 
閑話休題の一ページであった。