「くくる」考
 
 
 
 
千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)
   からくれなゐに 水くくるとは
         
              在原業平朝臣(17番) 『古今集』秋・294
 
 
●「水くくる」の解釈
 「定家はおそらくこう解していたであろう。『顕註密勘』に「水くぐるとは紅の木の葉の下を水のくぐりて流る」という顕昭の注をそのままにあげているとし「竜田川岩根のつつじ影見えて猶水くぐる春の紅」(拾遺愚草・下)などの歌が、その解釈の上に立って本歌取をしていることは、野中春水氏が指摘される通りである(「国文論叢」3)。ただ、この歌を作った業平にかえってよめば、賀茂真淵以下今日の通説の、下句を「こんなにまっ赤な色に水をくくり染めにするなどとは」といった解釈が正しいであろう。まことに奇抜な着想の才を見るべき歌であるが、定家らは「渡らば錦なかや絶えなむ」(古今集・秋下)の光景をこの歌に思いうかべていたのであった。」
新版 百人一首 島津忠夫=注釈 角川ソフィア文庫による
http://sky.geocities.jp/okamepapa07/hyakuninisyu4.html
 


 
 
現代の多くの一般的解釈では上記引用解釈のように、「水くくる」を染め物の「括り染め(くくりぞめ)」した生地が、竜田川で晒されるさま、というのが定説になっている。括り染めとは布の部分を糸でしばって(くくって)おいて染付けると、絞ったところだけ白く元の生地が染め残るという技法で、よく「総絞り」とか耳にするあれである。ロウケツ染めなどでも絞り技法を使う。しかしこの和歌にはそれだけでない意味も存在するだろう。

「くくる」には結ぶ・縛る・ひとまとめに束ねるなどの意のほかに、くぐもった、かがんだ、そして潜る(くぐる・もぐる 古・泳る)がある。この和歌の切り取ったシーンは、赤く染まった生地が竜田川の水に浸され、水流を潜っている様をダイナミックに詠んである。たくさんの真っ赤な紅葉の落ち葉が水を潜り抜けるその様が、まるで赤い染物が水を潜っているようだ、と解釈するのが正解で、わざわざ括り染めなどを持ち出すシチュエーションなど無用である。そもそも唐紅(真っ赤に)「水くくる」のであるから、それは晒した染物の赤い布地に見えたわけであり、その模様に技法である括り染めが出てくるような幕ではない。そんな細かいデザインは和歌の大意のかえって邪魔になるし、ましてそこまで見えるはずもない。まことに誰が解釈したのか意味不明ではないか。
 
 
岐阜県可児市久々利地名由来
「南西部、久々利川が形成したごく小規模な扇状地の上に位置する小集落。久々利地区には応神天皇を主神として祭る「八幡神社」や、1800年前に景行天皇が美濃に行幸した折に設けた仮宮「泳宮(くくりのみや)」がある。
泳宮 池の中で水をくぐるように泳ぐ鯉に由来する久々利という地名」
http://4travel.jp/travelogue/10731216
 
そもそもくぐる行為には穢れをはらうという意味があった。
神社での茅の輪くぐりも、くぐれば穢れが払われる、聖なる生き返り、ヨミガエリ作法なのである。
 
 
白山の女神菊理姫は「きくりひめ」と読ませるがもとは「くくるひめ」である。
花祭りの、かつての行事に「シラヤマ」があったが、この秘事は、白装束、笠をつけた氏子たちが、シラヤマと呼ばれる小山に行って、戻ってきたらヨミガエリという、折口に言わせると胎内を経ない誕生儀式である。
 

シラヤマ行事
 
 
 
「一方祈願を掛けた人たちは、用意した白装束・扇の笠・数珠に杖で、宮人や舞人の案内で日暮れ頃までに舞庭へ集まります。三途の川の橋のところには茶碗に飯を山盛りにして真ん中に箸を一本立てたのが幾杯となく置いてあります。これを枕飯といい、これを祈願者に食わせます。終わった者から順次太夫、舞人の案内で経文の橋を渡ります。どうしても渡れない者が十人中二、三人はあったといいます。渡れたものは後生がよい、渡れないものは後生が悪いことになります。そこで、今後善心になるようにくれぐれも勧告して、善心に立ち返れば次の神楽のとき極楽へ行けるようにしてやると言い聞かせて返します。
 
 渡れたものは極楽行きといって白山へ入ります。白山には悪神がいて、入ってきた善男善女を散々に苦しめますが、明け方になって山見鬼を大将に沢山の鬼が来て悪神を退治して助けます。
 こうして鬼は斧で白山を伐り開き、助けた人たちを連れて舞庭へ帰ってきます。この白山から助け出されるまでのことを、当時の人は、死んで白装束になり枕飯を食い、僧侶からお経を授けられ、三途の川を渡り極楽へ行ったのが、鬼の導きで再びこの世へ生まれ出るのだといって喜んだものであります。
生まれ清まり
 前述の生まれ変わった者を清める意味で産湯を使わせる式です。中央の釜に湯を沸かし、袮宜が笹の葉に湯を浸して、その者の全身に振り樹けます。全部が清まると、四日目の晩から花祭にかかります。」
 
 
 
奥三河地域の花祭は、愛知県三河北部から長野県南信地域まで、国境の奥地に伝わった追儺行事だが、大元は福井の白山信仰が広まったもので「はくさん」信仰と読むのが普通のところ、一部地域でのみ「シラヤマ」と呼んで、今はもうこの儀式を継続しているところがなくなろうとしている。白山をシラヤマと読むと各地の白山神社系のやしろ地区ではしかられるわけで、つまりシラヤマとは被差別の別所でのみ継続されていた秘事だったと考えてよいだろう。再生儀式である。
 
ククリという地名はしかしまだ各地にいくらか残っている。
 
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上記引用した岐阜県可児市久々利の標識。
 
くぐる。
一旦死の世界をくぐって、戻ってくればヨミガエリという地名で、菊理姫を祭る白山信仰があった証拠に成る。菊理姫は神話ではイザナギが黄泉の国へ入るときに、黄泉と現実世界の境界にいて、イザナギに黄泉に入る心得を説き、導く女神であるから、要するに「境界神」である。それもそんじょそこらの塞の神とは違い、黄泉へいざなう境界神であるから、シラヤマに入る儀式もヨミガエリ儀式ということになり、菊理姫に逢う為の秘儀だと考えられる。つまり「生まれ清まれる」儀式だということになる。いわゆる胎内めぐりの擬似行為と言える。各地にある胎内巡りそのものがつまり折口が言う、母体を通過しない誕生儀礼=再生による穢を払う行いになるだろう。
 
柳田は官僚だったゆえに、途中でこういう被差別に関わることをやめてしまうが、大阪生まれで自身ややあやしき身分の出自だった折口は、これを追求し続けた。そもそも自らも出自の卑しいことであることを知っていて、ルーツを探りたい衝動に取り憑かれていたのだろう。その神秘主義は泉鏡花などをはるかに上回り、虚実がないまぜになっていった感じがある。
 
先日なくなった俳優・三國連太郎にも、その出自を「白=古代の穢」と見た著作『親鸞 白い道』があり、自ら監督して映画化もされた。白、親鸞とくるのは、親鸞=浄土真宗=被差別という構造が彼の中にあったのだろう。比叡山は白山進行を迫害したが、彼らが移住したのは皮肉にもその比叡山信仰の末寺である地域だった(白山比神社 しらやまひめじんじゃ、加賀一ノ宮)。
 
 
筆者は日本の仏教は、そもそも聖徳太子がらい病患者を救ったと書かれたように、最初から被差別を救済するために輸入された、つまり煩悩とは国家の悩み=まつろわぬ賎民を救済、というよりも順応させ、馴致させ、鈍化させるための国策だったと思える。白はそもそも死の色であり続けた。白をハレの色彩と考えるのは西欧文化である。その思想を取り入れたのは明治天皇の皇后が最初である。その頃から葬式の衣装は黒になって、結婚式のドレスや誕生の腹帯は白になっていった。白とは穢者を覆い隠す死者の烙印の色だった。夢殿の中に眠っていた救世観音も白い布でぐるぐる巻きにされていた。救済とはつまり、このように穢者をおおい隠し、闇に葬ることだったのであろう。それは国家の宿命である、今も。
 
 
もう7年も前、筆者は白山神宮に詣で、大宮司と話を交わしている。久邇さんは言葉を選びながら賎民も被差別という言葉も、秦氏もすべて包み隠さず口に出した。
しかし地元民は神宮の女神の名前さえよく知らない人々が、ここを仏教の道場だと
思い込んで訪れている。
 
 

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