引用文献 菊池山哉『先住民族・賤民族の研究(昭和初期著作集の改訂編纂版)』批評社 1992

豊後国風土記網磯野(あみしぬ)の条
「纒向日代宮御宇天皇(景行)(豊後国)行幸の時、此に土蜘蛛ある、名を小竹鹿奥(しぬかをく)。小竹鹿臣と曰ふ。此の二人の土蜘蛛、御膳を為りにあたりて田獲(かり)をなせり。其の獲人の聲甚かまびすし。天皇大囂(あなみす)と勅り玉ふ。斯に因って大囂斯(あなみすね)と曰ふ。今網磯野と謂ふは訛なり。」
同海部郡の条
「此郡の百姓は 並海濱(なみうなま)の白水郎也。因って海部郡と曰ふ。」

”この白水郎は即ち?(新字源になし)言ふた豊後のシャアである。そしてここの海部の蛋(タン)もその昔し(ママ)皇命に反したものであることは左の記事によって明らかである。”(菊池山哉)
 
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菊池は貝塚民族(今で言う縄文人)のことを土蜘蛛であると断言している。
そして特殊民部族(今で言う被差別部民のことか?)の祖先は土蜘蛛族であるとも断言している。
その断言が言えて、初めて古代の敗北氏族と現代の被差別民の間に「つながり」の発想が生まれ出るのである。この着想なしには柳田国男にはじまる日本の民俗学、部民常民分析はないことになるのであろう。
 
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例証の文脈と脈絡なしに菊池の口からいきなり発せられた「シャア」とはなにか?
大分県海部郡地域における戦後の言葉で「おシャアさん」がある。

 このサイトの第三章交易を参照のこと http://www.geocities.jp/fumiyjt/12banme.html

これは「行商のおばちゃん」のことを意味する愛称である。
つまり平安から中世、近世、近現代を通して存続した漂泊の物売りのことが臼杵、佐賀関、佐伯あたりの東九州太平洋岸海の民の間で「シャア」と呼ばれていたと考えられる。
江戸時代の言葉で言えばひにんである。
英語ならばドロップ・アウターとでも言おうか。
 
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海部地名、豊地名は今でもリンクしており、そこには必ず中央からの干渉と差別が入り込む。そしてそうした菊池の言う「賤民」たちの存在がある。すなわちそこが「簒奪され、敗北し、漂泊し、逃げ込んだ場所」だったからである。
これに対し松田修は日本の天皇は「もうひとつの賤民」であると書いている。(『異形者の力』青玄社1994「芸能と差別」)
 
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イワムロとはなにか?
おそらく「岩室」とでも書くか?
「いわい」というめでたい言葉のうしろには「磐」という隠語が隠されている。
「いわい」「いわき」「いわた」・・・・その地域の歴史になにかひた隠しにせねばならぬ陰部があったのだろうか。
「いわむろ」は古墳の玄室のことである。
豊後国風土記石井郷の条に
この村には土蜘蛛の室があって、石を使わないで土だけで築いたとある。(おそらく石垣小学校そばの古墳であろう)
また禰疑野(ねぎの・竹田市ねぎの。七つ森古墳)に「打猿」という土蜘蛛がいて、ほかに八田(やた)、國麻呂という三名がいた。景行天皇は彼らも征伐したとある。
また同じく豊後国風土記 海石榴(つばきいち)の条にもくたみ(久住周辺)にも「鼠の石窟」という土蜘蛛がいたとある。「つばいち」地名は大和にもある。近つ飛鳥から武内宿禰と聖徳太子に関わるが、実際にはそこは羽曳野という「石を引いた」地名の古墳造営道路である。
つまり。
菊池によれば、土蜘蛛とやたとえたと古墳造営氏族と鉱物採集民と鍛冶は帰順させられた先住氏族であり、漂泊していたのは帰順に追従しなかった誇り高き分派であったと想像できることになる。