宗像三女神とはスサノヲとアマテラスの誓約(うけい)で生まれてきた八王子のうちの女神である。
 

 
宗像三女神が記紀に於いてスサノヲとアマテラスの娘とされた所以は、天武天皇の妃として宗形君徳善(むなかたのきみ・とくぜん)が娘・尼子娘(あまこのいらつめ)を差し出す海運豪族だったからであろう。
 
三女神祭祀の形態はつまり天皇家の天孫降臨思想よりも先んじていたと考えられる。
 

 
 
さて、『古事記』に三女神が取り込まれた理由は宗像氏の繁栄のせいではあろうが、ではなぜ天武よりも天智を重んじたはずの『日本書記』神代紀までがそれを踏襲したのか?その理由は以下の分析を読まれたい。
 


 
 
まず、藤原不比等が編者の中心にいたその時代の天皇とは誰だったか?なのである。
 

 
 
藤原 不比等(ふじわら の ふひと、 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月9日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。

11歳の時、父鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
 
草壁皇子の息子、文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる
 
また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め文武の即位直後には娘の藤原宮子が文武の夫人となり、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。
 
文武・宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。
不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。また、大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に施行を前に病死した。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。
不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。
 
 
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある
(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという
 
 
元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29 日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:慶雲4年7月17日( 707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ )和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと
 
元正天皇(げんしょうてんのう、天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月 22日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3 日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)
 
 
a50d131f.jpg

 

不比等の天皇大納言=宰相としての期間701年3月21日~720年10月23日
持統在位期間690年2月14日~697年8月22日
元明在位期間707年8月18日~715年10月3日
元正在位期間715年10月3日~724年3月3日
 
 
不比等の大納言在位期間の天皇は三人の女帝と文武である。
そして『日本書記』の中枢部分が成立したのは元明女帝の頃であると考えられる。
だから『日本書記』のイデオロギーを作り上げたのも、不比等と元明の連携であろう。元正は不比等の死の五年前に即位。五年間不比等とともに執政したことになる。持統は不比等をただの史官=フヒトだったのを中納言から大納言へと持ち上げていった女帝である。そして元明はまさに文武とともに不比等が全時代にわたり宰相としてそばにいた女帝になる。
 
持統天皇の諡号の高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと とは、あきらかに天孫、皇祖アマテラスの居る場所を名前にしている。これは『日本書記』だけがそうしてあり、『古事記』にはない諡号であるから、『日本書記』思想は明白に持統をアマテラス、皇祖としていこうとしているのである。
 
そして彼女は、同時に三女神の長女でもあった。
 
 
85a83922.jpg


系図を比較してみると、不比等と元明はあきらかに天智=イザナギ、持統=アマテラス同時に三女神長女、元明=三女神の中心神である市杵島姫、元正=タキリヒメに相当させ、天武をスサノヲの位置に置こうとしていたのであろう。
 
つまり深読みすれば、意外な逆転人事だと思われてきた光仁~桓武の即位までの道は、橘氏つまり諸兄らの勢力の反駁さえなければ、もっと早く順当に決まっており、前もって用意されていたものだったろうことに気がつくのである。
 

 
 
このように宗像三女神をイメージして不比等がイデオロギー操作してきた女帝三代を中央では指していた。宗像氏もそれを意識したことであろう。もちろん三女の形式はそれ以前から宗像氏にはあっただろうし、そもそも太陽神アマテラスこそは、海人族である宗像氏のものであったはずである。もっと言うなら天智母方である息長氏もまた宗形の海人族から分かれた氏族だった可能性は高い。
 
そしてのちに宗像三女神が宇佐に降臨したと書かれた理由も、渡来系八幡信仰に対するアマテラス信仰の割り込みを明示していると言えるだろう。
 
三女神を持ち上げれば死した天武を一見持ち上げているようにも見える。しかし内実は天智=息長の正統を『日本書記』は堂々と書き記した。おそらく宗像徳善も気がつかないイデオロギー操作である。その証拠に宗像氏の外戚関係は徳善一代限りで終わり、しかしその後も宗像大社は大和朝廷のアマテラス信仰を継承し続け、太陽神祭祀を続けたのだった。この構図はまさに出雲大社の「ヤマトの国魂を守護する」という構図、宣言に等しい敗者の歴史構造だと言える。
 
海人族は利用され続ける、大和の外来為政者たちによって。縄文は弥生によって源平のような武家や助言者の立場に置かれたのであろう。もう一度上の並立系図を観れば、天武=スサノヲ=出雲・海人族が見えてくる。その海人族の代表には息長氏よりも葛城の武内宿禰系譜・・・つまり「内(有智)の系譜」が見え隠れするはずである。祖の中には葛城氏、紀氏(木氏)とともに蘇我氏もいたのである。すべて海人族管理者の系譜である。
 
 
 
 

 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1